語り継ごう20世紀の物語/鄭末順さん


60歳を過ぎて、若い世代支えたい/いりこのダシ のように

アボジも弟も解放の年に亡くなった

夫と二人三脚/トコトン話し合う

 北九州市八幡地区に半世紀以上暮らす鄭末順さん(64)。女性同盟八幡支部委員長を15年間全うし、94年からは顧問。

 鄭さんが、熊本から八幡に移り住んだのは、今から54年前の1945年。当時9歳。祖国解放の年に、アボジが亡くなったこともあって、よく覚えている。

 「空襲もたびたびあった。病に伏せっていたアボジをリヤカーに乗せて、防空壕に運んだ。結局、アボジはその最中に亡くなったので、葬式もきちんとしてあげられなかった」

 食糧難。食べるものと言えば、イモとコッペパンの配給だけ。とにかく空腹だった。働き手を失って、一家は叔母(イモ)を頼って、黒埼に引っ越してきた。はしかから肺炎にかかって、たった1人の弟が息を引き取ったのもこの頃。

 「闇でドブロクを造って、筑豊の高松炭坑の飯場まで、自転車で片道2時間かけて売りにいった。水枕にドブロクを入れて隠したり、そりゃあ、生きるために必死だった。帰りは、拾った石炭や野菜のくずを積んで戻ってきたものだ」

 そんな、貧しい時代。自分の食べ物がなくても、1世のオモニは、朝聯の活動家たちを食べさせ、着せて、何よりも大事にした。家には活動家たちが頻繁に出入りし、組織への親しみと愛情は自然に身についていった。

 オモニの窮状を救うため、中学を出て、同胞の衣料品店に住み込みで働いた。初任給は3000円。「貧乏だったけれど、それを感じたことがなかった。オモニは裁縫が上手で、米軍の落下傘の生地でブラウスを縫ってくれたこともある。破れたり、ヨレヨレの服を着たことはなかった」。

 朝鮮戦争が始まった。八幡や筑豊は「朝鮮特需」の景気に沸いていた。それを尻目に、鄭さんの周辺の同胞らは、「同胞を殺すための武器を送るな」と反戦闘争に立ち上がった。周辺には厳しい政治の嵐が吹き荒れ始めた。

 この頃、姉が組織の活動家と結婚。義兄は反戦運動で官憲に追われ、地下に潜伏中だった。「苦労ばかりするのに、なぜアカに嫁がせるの」とオモニを責める同胞もいたが、オモニは笑って取り合わなかった。

 総聯結成から4年後の59年。鄭さんも福岡朝青支部副委員長だった李培根さんと結ばれた。鄭さんは23歳。夫は35歳。いつも家に出入りして、オモニがよく可愛がっていた活動家だった。

 結婚と同時に鄭さんは、女性同盟八幡支部の組織部長に就任。活動家としての二人三脚が始まった。「とにかく、活動、活動で、家にお金を入れたことがない人よ。結婚した当初、生活に困って一度だけ、『組織を辞めて』と頼んだら、別れるしかないな、と言われたことがあった。4人の子供も生まれて、生活が苦しかったのは本当。でも、辛いと思ったことはなかった」。

 それからしばらくして脊椎カリエスを患って1年間入院した。夫は幼い子供たちを必死に育てた。やがて、病を克服して、仕事に復帰したとき、2人の絆はより強く結ばれていた。

 「ここは留守にするとき、どこに行くか言っていかないと叱られる所。少し姿を見せないと、同胞らが入れ替わり立ち替わり来て、心配してくれる」

 そうは言っても、人間どこかでストレスを発散させなくては。「とにかく、夫と、どんなことでも、トコトン話し合ってこれたのが良かった。仕事のことで、行き詰まると寝ている夫を起こして『ねえ、ちょっと聞いてよ』と延々と愚痴を聞いて貰った。すると夫は、最後まで耳を傾けてくれるが、決まって『1人いきり立ってもしょうがない』とボソッと言って、また眠る。その間に不思議と気持ちも収まっていた」

 1980年から94年まで、同支部の女性同盟委員長を務めた。「本当にこの地域は、祖国や組織を心から大切に思っているオモニたちが多い。養豚しながら、子供らに民族教育を受けさせたと胸を張る民族心の強いオモニたち。回想録の学習会をやるときも、豚を飼う手を休めて、みんな出てきてくれた。祖国がバッシングされると、悔しくて、電話がかかってくる。とにかく、毎日、どっかで、同胞が集まって何やらにぎやかに話し合っている」

 八幡地域には330世帯の同胞が住み、女性同盟のメンバーは300余人。地域の同胞がお互いに助け合えるよう、すべての同胞の間に電話連絡網も結んだ。

 その実績を残して、94年、朴順姫委員長(54)にバトンタッチした。鄭顧問は言う。「完全燃焼して、思い残すことは何もなかった。朴委員長がよくやってくれているし、何もでしゃばることはない。60を過ぎて『いりこのダシ』にでもなれればと思うが、委員長はじめみんなが、姉さん、姉さんとよろず相談にやってきてくれる。幸せなことだと思っている」

 その朴委員長が隣で合づちを打ちながら語った。「ここは、全国に先駆けて20〜30代の若い世代を繋ぐ『ひよこキッズ』を結成した。40代の『コスモスの会』、50〜60代の『無窮花の会』もある。その礎を築いたのが、鄭顧問たちの世代。若い人たちのめんどうを見てくれているが、若い世代は鄭顧問たちこそ宝ものと言って、敬っている」

 北九州地域は、日本でも失業率が最も高いなど、様々な難問を抱える。同胞らの生活も決して楽ではない。しかし、鄭顧問のように、一筋の道を脇目も振らず、歩いてきた人によって、組織は守られてきた。その何とも名状し難い素朴さと温かさが、今日も八幡の同胞らを優しく、包み込んでいる。(朴日粉記者)