近代朝鮮の開拓者/企業家(6)金正浩(キム・ジョンホ)


 金正浩(1886〜1940年頃)

 ケソンの富豪の出身。日本に留学して明治大学法学部法学科卒業。ケソンに近代的企業を設立、発展させようと努力した。ケソン電気株式会社をはじめ、いくつかの会社の取締役に就任。

 

郷土に電気をともす/ケソンに電気会社を設立

 金正浩は、ケソン(開城)の大富豪の出身である。幼い頃は書堂で漢学を習い、後には日本に留学して、明治大学の法学部・法学科を卒業した。法学を学ぶかたわら卒業後、故郷に帰って近代的な企業を起こさんがため、日本の企業経営方法についても注目していた。

 彼は、故郷のケソンを愛するがゆえに仲間うちで団結し、従来の経営方法に固執しようとする先輩たちのやり方に批判的であった。1912年、30代の若さで彼は、ケソンで最初の会社となる永信社を創立し、その代表取締役となった。人参園の経営と各種商品の委託販売を行う会社である。

 さらに、ケソン電気会社の設立を構想する。1910年代、ソウルやピョンヤン、プサン、イン
チョンなどでは、次々と電気会社が設立され、家々に電灯がともり、電車も走り出していた。しかし、これらはすべて日本人か、西洋人の資本によるもので、朝鮮人の手になるものではなかった。

 金正浩は、自分の生れ育ったケソンで、郷土の人と力を合わせて電気会社を作り、近代的な工場に発展させ、街に電灯をともしたいと考えたのである。

 1917年4月、彼が創立委員長となった、ケソン電気株式会社を創立する趣旨書には次のように書かれている。

 「何人かの資金で全郡の利益を独占しようというのではなく、全郡の力を合わせ、全郡の発展をはかり、大株主が平等に利益を分かち合い、社員はケソン市民より選び、清新なる実績をあげようとするものである」

 彼は、ケソンの主な有志である金基永、孔聖学、金元培などと相談しながら、さらに広く有志を求めて奔走し、ついに100余名の株主を組織して、1917年4月15日、同会社の創立株主総会を開いた。

 これまでの実績を買われて初代社長に就任した彼の希望どおり、ケソン市民のための電灯を郷土の人々の力でともすことができ、工場にも送電できるようになった。

 彼は、その後、松都(注)陶器株式会社、松都ゴム工業株式会社などの取締役にもなるが、特に伝統ある松都高等普通学校の実習工場―「松高実業場」の管理運営にも尽力した。紡織を主とするこの工場は、ケソン、ひいては朝鮮の近代工場の模範として名を轟かせた。

 彼ら先人の努力は、今も現代に生かされているといえよう。(金哲央、朝鮮大学校講師)

 (注)松都=ケソンの別名、昔から松が多かったことから、呼ばれたもの。