わがまち・ウリトンネ(16)/東京・枝川(4) 尹太祚、黄炳哲


生活苦と求人難、帰国へ/日本人増え自然に共存

 尹太祚さん(84)一家が枝川トンネにやってきた翌年の1959年12月、朝鮮への帰国第1船が新潟を出港した。

 その後、60〜62年にかけて、枝川からも多くの同胞が帰国していった。当時を知る人は、その数は100人ほどではなかったかと語る。

 東京朝鮮第2初級学校の教室で、盛大な送別会が何度も開かれたのを尹さんは覚えている。「私も新潟まで7回見送りに行きました」。尹さんの2番目の娘も、朝鮮大学校在学中に帰国した。

 帰国する同胞の中には、自分たちが住んでいた家を日本人に譲っていく者もいた。

 「寒い場所に帰るので、布団1枚でもよけい準備していきたいのが人情でしょう」と尹さん。こうして、帰国船が盛んに行き来していた60年代前半を境に、枝川トンネにも日本人が多く住むようになる。尹さんによると、この頃から朝鮮人と日本人の割合が半々ぐらいになったという。

 「帰国者が多かったのは生活が苦しく、日本ではなかなか仕事がみつからなかったからです」

 こう尹さんが語るように、当時、トンネの同胞たちの生活はたいへん厳しいものだった。

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 メモ 在日朝鮮科学技術協会の調査報告「在日朝鮮人の生活実態」(51年)は、50年末に枝川1丁目住民の生活実態を調査した内容を載せている。そこでは、「枝川1丁目の朝鮮人の職業は殆んど不安定な半失業状態にあり、しかもその上に世帯員が多いに拘らず有業人員がきわめて低いという2重の苦悩にあることが明らかになる」と結論づけている。

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 枝川で生まれ育った在日2世の黄炳哲さん(45)は、朝鮮人だからと言って差別された覚えがまったくない。「逆に日本人の方が気を使っている部分があるのではないでしょうか」。それが枝川という街の特殊性でもあると、黄さんは語る。

 東京市当局が朝鮮人を1ヵ所に隔離したことから作られた枝川トンネには、当初、朝鮮人しか住んでいなかった。その後、東京大空襲で避難してきた日本人が住み着き、60年代、帰国者の増加に伴い日本人の数も激増した。

 こうした歴史的経緯から、「枝川の責任者は朝鮮人だという認識」(尹さん)が住人の間に自然と身についている。

 現在、東京都との間で土地の払い下げが持ち上がっているが、ここで中心的役割を果たしているのも朝鮮人たちだ。そんなことから、日本人の住人に相談を持ちかけられることも多い。

 「自然な形で共存している」(黄さん)(文聖姫記者)