「民族」と「国籍」在日朝鮮人として生きる(上)
1、2世から3、4世への世代交代、その過程での日本への帰化手続き、日本人との国際結婚の倍加――在日同胞社会が複合化しつつあるこのような現実は、在日同胞にとって「国籍」を持って生きるとは、「民族」とは何か、ということを問いかけている。
日本政府の政策/一貫する「同化の勧め」
民族の尊厳否定
日本社会で在日同胞はなぜ「国籍」を持って生きるのか。
それは、民族の尊厳を否定されたくないからだ。
在日同胞が、日本で帰化(国籍のそう失)を拒んできたのはそうした理由だ。日本での帰化は同化を意味し、同化はアイデンティティのそう失につながる。
つまり、帰化=「国籍」のそう失は、朝鮮民族を失うことになる、というのが今の日本社会の現状だ。
例を挙げて、入国管理局付検事・同参事官として「在日韓国人の法的地位委員会」の日本側代表補佐を努めた池上努氏は、「日本政府としては、真に日本に定着して日本の社会人になろうという韓国人には、いつまでも外国籍でいたんでは好ましくないし、同化つまり帰化してもらうことが一番良いのではないだろうか」(「法的地位200の質問」)と語っている。
また、「日韓条約」を締結した佐藤首相も「外国人として特殊な生活様式をもつことも将来に禍根を残すだろう。その時は、帰化という国籍取得の道もございます」(衆院特別委員会、1965年)と述べている。
こうした考えにはっきりと表れているように、日本政府の在日同胞政策は同化させること、朝鮮人をすてて、日本人になることを勧めることだった。
別の概念で
1985年、日本の戸籍法が改正されたことで行政に、帰化後の氏名を日本的氏名にすることを強制されることがなくなり、民族名のままで帰化する人がみられるようになった。
その結果、「国籍」と「民族」を分ける考え方が表れ始めた。
「民族名を取り戻す会」(94年末解散)を初め、戸籍法改正後のここ10年間、帰化する人たちの間でそうした主張が台頭しはじめた。
彼らの主張の根本にあるのは、「民族」と「国籍」は別だとする概念だ。日本国籍を取得することは、日本の国籍保持者として、参政権や公務就任権など法的に何の制限も受けないばかりか、逆に朝鮮民族であることを表示しながら、国会議員や裁判官、検察官を送りだせるという主張である。
あくまでも、日本社会で生きる「手段」としての「国籍取得」をとらえているのだ。
危険性を内包
このような主張に対して、弁護士の金敬得さんは、「外国人としての権利を制約する機能も果たす危険性を内包することを留意すべきだ」と、指摘する(論文「民族と国籍」)。
金さんは、76年に司法試験に合格し、最高裁判所に司法修習生採用の願書を提出した。これに対し、最高裁判所は採用条件として帰化することを要求してきた。
当時の金さんは、いくら帰化をして社会的地位を得たとしても、「朝鮮人であることを恨み、いたいけな心を痛めている同胞の子どもに対して『朝鮮人であることを恥じずに、強く生きるんだよ』と諭してみても、それが帰化した人間の言葉であってみれば、いったいいかなる効果があるのか」(前述)と、自問自答した結果の答えだったという。
この結論は、自分が朝鮮人として生きようと決心した時、強く意識した「国籍」と「本名」に由来する。
金さんは、「朝鮮人らしいものとして残っていたのは、国籍と本名、そして非差別体験のみ」であったと語っている(前述)。
容易な対応
日本国籍を取得しながら、民族の表示を可能にすることは、生来、持つべき権利を外国人に付与することよりも、日本政府としては容易な対応である。
「国籍」と「民族」は別だとする主張は、「国籍」差別をつくってきた、日本政府に対する批判をかわす材料となり、外国人としての「国籍」を持って生きることを選択している在日同胞に対して、「国籍」差別は甘受すべきとの論理に利用される危険性があるのだ。
さらに、社会的に民族性が保障される総合的な施設が備わっていない日本の現状で、日本の国籍を取得して民族性を保持し続けるのは難しいと言わざるを得ない。(金美嶺記者)