近代朝鮮の開拓者/企業家(5)崔益模(チェ・イモ)


 崔益模(1870〜1935年頃)

 先輩の孫鳳祥、孔聖学と共にケソン・インサムの品質を改善、近代的な販売方法として通信販売を始めた。好評を博し、ケソン・インサムは朝鮮を代表する高麗人参として世界に知られるようになった。

 

ケソンインサム栽培・普及に尽力/「通信販売」を発案

 ケソン(開城)の住民は昔から独特の気質があると言われてきた。ケソンは、高麗王朝500年の首都であった。

 14世紀末期、李成桂(リ・ソンゲ)が李朝を建て、都をソウルに移すと官僚たちはソウルに移っていった。だが、土着の人々はケソンに居残り、商品流通(商売)と金融業に従事しながら生活の向上をはかった。

 それだけにケソンの商人たちは、信用を重んじ、勤倹節約を生活の信条としながら、商取引では計算を明確にし、かつ、互いに助け合っていた。

 低い山に囲まれた盆地の、特産物が豊富でなかったこの地域で、商品価値の高いものとして考え出されたのがインサム(人参)栽培であった。

 ケソン・インサムはすでに李朝中期から中国や日本を初めとした東南アジアに輸出され、有名となっていた。

 当時、インサムの高級品は、それを蒸(む)した「ホンサム(紅参)」であった。ホンサムが高い値段で取引された一方、畑で作り、乾かしただけの「ペクサム(白参)」は、商品価値が低いものとして扱われた。

 ところが李朝末期、経済難に悩む政府当局がこれに目を付け、人々の反対を押し切って「ホンサム専売法」を作り、政府指定の販売店で売りさばいて国家の財源としたのである。

 この困難な状況下で、ケソン・インサムを窮地から救い出し、いっそう進んだ近代的企業に発展させたのが、崔益模(チェ・イモ)、孫鳳祥(ソン・ボンサン)、孔聖学(コン・ソンハク)たちの働きであった。

 とくに崔の創造的なアイデアと企業活動は目ざましかった。問題は、専売となっていたホンサムに対応して、当時軽視されていたペクサムをいかに売りこむかにかかっていた。

 彼が考え出したのは、第1に、ペクサムに人目を引く美しく、かつ権威を感じさせる商標(トレードマーク)を付けたことであり、第2に、ホンサムにおとらぬ信用を感じさせる包装をして箱に収めたことであり、そして第3には、これを大々的に宣伝したことである。

 崔は、綺麗に乾燥したペクサムの一つひとつに「天下一品 高麗人参」と印刷された「金帯」を付け、しかもそれを新聞、雑誌などに宣伝しながら、手紙で注文を受け付けた。当時としては、画期的な「通信販売」という方法を考え出したのである。

 こうして、ケソン・イサンムは朝鮮を代表する「コリョ・インサム(高麗人参)」として世界市場に進出することになった。その功績に対してケソン市民は1935年、崔の功労碑を立てたのである。(金哲央、朝鮮大学校講師)