文学散策/ニムの沈黙 韓龍雲(ハン・リョンウン)
ニムの沈黙
ニムは去りました。 ああ愛する私のニムは去りました。(中略) 私たちは会うときに別れを憂うように、分かれるときにまた会えることを信じます。 ああニムは去ったけれども、私はニムを送りませんでした。 自らの調べに打ち勝てない愛の歌はニムの沈黙を包んでめぐります。 (大村益夫編訳「詩で学ぶ朝鮮の心」1998年、青丘文化社) |
今はなき姿求め雪岳山の古庵で
名詩「ニムの沈黙」(1925年)。その出だしと結句である(別項)。詩人・韓龍雲(ハン・リョンウン)は詩中で「愛するわたしのニム」が死んで消え去ったため、「はじめての鋭い キス の思い出」も「後ずさりして消えました」とうたっている。
前回(10月6日号)の金素月(キム・ソウォル)の「岩つつじ」と同様に、この「ニム」も表向きは恋人を指しているが、実は「祖国」を暗喩(あんゆ)している。もはやニムは去り、目前に「花のようなニムの顔」「かぐわしいニムの声」はすでに無く、ただニムの沈黙だけが残影としてとどめられている。激しい慟哭(どうこく)に似た詩人の歌は、奪われた祖国の姿を求めて駆け巡っているようである。
「ニムを送りませんでした」「また会えることを信じます」は、自らの意思で祖国を日本に奪われたのでもなく、必ずや朝鮮民衆の手で祖国を取り戻すであろうという、詩人の強烈な思いが込められている。
韓龍雲(1879〜1944年、号は萬海)は、忠清南道洪城郡の出身。8歳で、中国・元時代(1271〜1367年)の恋愛戯曲などを読破し、15歳頃に東学の乱(1894年)に参加した。
彼は、風雲急を告げる時代に「山村に埋もれる時ではない」と郷里を離れ、雪岳山(江原道)の百潭寺に向かい仏門に入った。
「ニムの沈黙」は、千年樹林を渡る風の音だけが静寂を破る百潭寺よりなお2里ほど谷をさかのぼり、落葉重なる山道を越えた絶勝の地である望景台に静かにたたずむ古寺−五歳庵で書かれた。多くの者が変節していった3・1独立運動(1919年)の裁判以後のことだ。
裁判時、他の者が一様に答えたが、彼だけがなぜか沈黙したままだった。
「なぜ答えぬ」と裁判官が質すると、彼は毅然(きぜん)とした態度で「朝鮮人民が独立を叫ぶに、なぜ日本官憲が裁く権利があるのか」と一喝(かつ)した。
インドのガンジー(政治家・思想家、1869〜1948年)やタゴール(詩人、1861〜1941年)になぞえられた彼は、詩「わかりません」も発表した。
「風もない空から垂直に波紋を起こしながらも、音もなく落ちてくるあの1枚の桐の葉は、だれの足跡でしょうか。/うっとうしい梅雨があけるころ、西風が追い立ててゆく險しい黒雲の裂け目に見え隠れするあの青い空は、誰の顔でしょうか。花もない深い森のなかの、苔むす岩のあいだを流れてきて、古い塔を巡り、やがて静まる空へのぼってゆくこの香気は、だれの息吹でしょうか。(後略)」(姜晶中編訳「韓国現代詩集」土曜美術社、1987年)。(金学烈、朝鮮大学校教授、早稲田大学講師)