わがまち・ウリトンネ(11)/福岡・八幡(3) 文炳浩、韓相奎
みんなで祝った結婚式/「午後夜間学校」で文字を学ぶ
1945年8月15日、祖国解放を迎え、多くの同胞たちが帰国の途についたが、そのままこの八幡に残る人たちも少なくなかった。そして結婚、家庭を築く人が次第に増えていった。
同胞の結婚式は50年代頃までは主に、新郎がまとう衣装の官帯(クァンデ)や帽子の紗帽(サモ)、新婦がまとう闊衣(ファルオッ)や花冠(ファグァン)などを下関の衣装店から借りてきて、自宅や日本の公民館を借りて行っていた。
16歳の時(41年)に、募集で陸海軍が監督する兵庫県尼崎の軍需工場に強制連行され、そこで解放を迎えた後、八幡に来た韓相奎さん(76)は、当時の結婚式の様子を次のように語る。
「生活もままならない時期だっただけに、トンネの同胞たちが酒や食べ物を持ち寄って祝ったものだ。酒が足りなくなると、女性たちがあちこちの家に行って、さらにかき集めてきた」、「恒例の新郎に対する『足叩き』が始まると、座は一気に盛り上がった。この日のためにと、準備しておいたカラカラに乾いたミョンテ(すけそうだら)を手に、みんな、むちゃくちゃ叩いていた。チャンモ(新婦の母)がいくら止めても、みんな酔っているので聞く耳を持たず、エスカレートするばかりだった」、「その後数日間、まともに歩くことのできなかったのが新郎であり、それが結婚した証でもあった」
トンネの同胞が総出で祝福する結婚式、そして、「足叩き」などの習慣は、その後も受け継がれ、今でも祝いの場をいっそう盛り上げるものとなっている。
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46年、八幡朝連小学校が小山田(現在の八王寺)に開校され民族教育が始まった。しかし3年後の49年に、朝鮮人学校「閉鎖令」が日本当局によってひかれ、全国の学校が閉鎖された。
その後、同胞らによって60年2月に八幡朝鮮初級学校が開校されるまでは、日本の小学校(穴生小学校)などで「民族学級」が運営された。
しかし、学校までの交通が不便だったことから、日本の学校に通う生徒も少なくなかった。
同胞らはなんとかして、母国語教育の場を子供たちに与えたいと、「午後夜間学校」を小山田や穴生などに設けた。
韓さんによると、穴生の「午後夜間学校」は月、水、金曜日の午後8時から10時までの2時間運営された。
「日本の学校に通う子供たちと共に、植民地時代、学校に通えなかった1世たちも多く、みんな生き生きと文字を学んだ」
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八幡朝鮮初級学校は68年1月、小倉朝鮮初級学校と統合し、校名を北九州朝鮮初中級学校に変更した。校舎はJR黒崎駅に近い所に建てられた。(羅基哲記者)