「中野重治と朝鮮」シンポ
海峡を超えた連帯の詩/「雨の降る品川駅」
日本文学の問題として
「辛よ さようなら/金よ さようなら/君らは雨の降る品川駅から乗車する…」
1929年、雑誌「改造」に発表された詩「雨の降る品川駅」をはじめ、数々の作品を残し、77歳(1979年8月24日)で亡くなった作家・中野重治氏(なかの・しげはる)。彼の没後20周年シンポジウム「中野重治と朝鮮」(主催=中野重治の会)が16日、明治学院大学・白金校舎本館で行われ、約200人が参加した。
シンポは、「朝鮮問題を、日本文学そのものの問題として、新しい世代、古い世代の共通する問題として、両方を正当につなぐ、〈歴史的媒介環〉の問題」としてとらえた中野氏の考えをふりかえり、朝・日間の歴史認識を深めるために開かれた。
シンポでは、「雨の降る品川駅」「朝鮮の女」などを、女優の岸田今日子さんが朗読し、一橋大学教授イ・ヨンスク氏、京都大学助教授・水野直樹氏、文芸評論家・黒川創氏、明治学院大学教授・滿田邦夫氏が報告した。
差別構造を問い続ける
中野重治氏と朝鮮との関わりについて、滿田教授は、「彼の父・中野藤作が朝鮮総督府に勤めたことに始まる。そのことから、彼はいつも日本人の心の問題として朝鮮を考えていた」と述べた。
幼少時における朝鮮人との日常的な関わりの体験が、詩の生まれる背景としてあった。しかし、植民地朝鮮で、暮らす中で身についた意識は、簡単にはぬぐえなかった。詩中にある、朝鮮人を「日本プロレタリアートの後だて前だて」という表現である。「民族エゴイズムのしっぽのようなものを引きずっている感じがぬぐい切れません」と、自身も述懐している。
在日コリアンであるイ・ヨンスク教授は、「中野氏は言葉のもつ危うさに常に意識的であった。彼は、翻訳語と日常語、知識人の言葉と民衆の言葉が、乖離(かいり)する近代日本語への厳しい言語批判を行ったといえる」という。
歴史認識を曖昧(あいまい)にし続け、自ら責任をはたそうとしなかった自身に対しても厳しく、かつ民族問題を軽視しつづけてきた日本人の差別意識構造をも問い続けてきた中野氏。
「2つの民族をつなぐ環の構築は、朝・日の新しい世代にかかっている」(司会・ 中野重治の会 林淑美氏、在日中国人)のだ。
なぜ品川が舞台に
なぜ中野重治は、「品川」を詩の舞台に選んだのか。
詩が発表されたのは1929年。
朝鮮半島では日本の植民地化(1910年)に抗し、3・1独立運動(1919年)に代表されるように、各地で激しい抗議、武装蜂起が起きた。
朝鮮民族の反植民地、反日・抗日行動を押さえ込むために、日本の支配層は関東大震災(1923年)を利用して「井戸に毒を入れた」とか「暴動を起こしている」などのデマを流し、朝鮮人虐殺へと駆り立てた。
市民の間に朝鮮人敵視、蔑視・偏見が流布されていったのだ。
そして、侵略戦争が本格化する中で、鉱山、軍需工場などに強制連行された朝鮮人は、品川駅を起点として各地に送られていった。
中野重治にとって、多くの朝鮮人が集結させられた品川駅は自分が育った、植民地朝鮮と重なって映ったのではないか。 (金英哲記者)