わがまち・ウリトンネ(7)/福岡・小倉(3) 金顕吉


人夫、ホルモン屋、養豚/日常茶飯事のどぶろく摘発

 戦前、小倉炭坑や小倉造兵工廠、曽根飛行場建設などの軍需関連施設現場に駆り出された同胞は、付近の飯場などに住んだが、その多くは戦後もその地に集団で住み着いた。現在の黒原、神岳、足立、浅野、砂津、日明、木町、白銀(以上小倉北区)、呼野、曽根(以上小倉南区)などの地域である。

 そして彼らのほとんどは、土木の人夫として、戦時中の米軍の空襲で破壊された建物の解体や、道路建設などのインフラ整備にあたった。

 また一部には、ホルモン(牛の内臓)料理を出す飲食店、日本人が「臭い」と嫌った養豚業、違法だが手っ取り早く稼げる「タッペギ(どぶろく)」を密造し、売る同胞もいた。

 「タッペギ」の密造者を摘発するために、2〜300人の警官と税務署署員がトラック4〜5台で押し寄せたことも日常茶飯事だったとか。

 「逮捕されないために、タッペギを地面に捨て、その上に豚のふん尿をかけて匂いを消した。騒ぎが静まると、またタッペギを作り、摘発を受ける、ということの繰り返しだった。家族を養い食べるためには、ギリギリの所で頑張るしかなかった」と、朴基洪さん(77)は語る。

 朴さんは17歳の時、1939年11月、慶尚南道で行われた募集の名で強制連行され、兵庫県明石の印刷工場にきた。祖国解放は浜松で迎え、小倉には朝鮮戦争(50年6月〜53年7月)が勃発する前年の49年に来た。

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 朝鮮戦争が起きると、戦線に近い北九州、とくに小倉の町は、弾薬補給地として戦時中同様、軍都としての色合いが濃くなっていった。戦争特需で、産業界はにわかに活況を呈した。

 「同胞社会も特需でうるおった。戦争には体を張って反対したが、生活のため止むを得ず、古鉄屋を営む同胞も増えた」(朴さん)

 米兵が休暇のため立ち寄る町としてもにぎわった。兵士たちは戦線に出向けば二度と帰ってこられないかもしれないと、あり金をすべて飲み食いなどに使ったという。

 そのため同胞の中にも、米兵を相手にした飲食業や娯楽業などに就く者も増えていった。

 「朝鮮特需」を契機に、同胞らの生活が安定へと向かっていったことも事実なのである。

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 メモ 米軍は45年10月、旧日本軍が増築し、戦時中に使用していた西日本一の弾薬庫、山田弾薬庫を接収した。 以後米軍の管理下に置かれ、朝鮮戦争やベトナム戦争の前線に弾薬が補給された。米軍は70年に撤収し、弾薬庫は72年に日本に返還された。(羅基哲記者)