文学散策/岩つゝじ 金素月(キム・ソウォル)


岩つゝじ

どうで別れの
日が来たら
なんにもいはずと 送りましよ。

寧邊薬山(ニョンビョンヤサン)
岩つゝじ
摘んで お道に敷きませう。

歩み歩みに
そのつゝじ
そつと踏まへて お行きなさい。

どうで別れの
日が来たら
死んでも涙は見せませぬ。

 

失恋の歌か?それとも…

 朝鮮でいちばん有名な愛の絶唱である。嫁いでゆく恋人との別れの悲しみ、失恋の痛みをうたっている。

 最も愛する美しい人へ、最も美しい「岩つつじ」(平安北道寧辺郡の奇岩の名勝地、薬山東台に咲く)を捧げましょうというメッセージだ。

 1922年、金素月が20歳の時に作ったこの詩は、一見失恋歌の形をとっているが、実は3・1独立万歳事件(1919年)直後の、民衆への深い悲しみを暗にうたったレジスタンス(抵抗)のうたであるとういうのが通説である。

 詩の結びに「死んでも 涙は見せませぬ」とあるが、「死ぬとも わが祖国を取り戻さん」という、死を決した強烈な思いが込められていると言えよう。

 彼はこの詩に似た「招魂」(1925年)でも、「愛するその人」のことを「千々に砕けたその名よ/空に散り散ったその名よ/呼んでもぬしのないその名よ/呼びつづけて息も絶えそうなその名よ/(中略)/立ったまま ここで 石となっても/呼んで呼んで息絶えるその名よ」(許南麒編訳『現代朝鮮詩選』1955年、青木書店)とうたっている。つまり、「愛するその人」は失恋の対象である「恋人」以上に、「失った祖国」という意味あいの方が強い。表面上は失恋のうたとなっているが、うちに秘められた真意は、痛恨の亡国の情と独立への願望のうただといえる。

 金素月(本名廷G)は、1902年平安北道郭山郡で生まれた。1922年にソウルの名門校、培材高等普通学校を卒業し、23年に日本へ渡り東京商科大学(現一橋大)で学んだ。同年9月の関東大震災時に虐殺を逃れ帰国し、華やかな文化の中心地、ソウルに一時滞在したが、「(ソウルの)遠い夜空はまっ暗です」(『ソウルの夜』1923年)と言い残し、郷里へ帰ってしまった。繁雑な都市や人間関係を嫌った彼は、郷里で詩作に励んだが、34年に突然、服毒自殺した。

 彼を知る殷鍾燮博士(金日成総合大学)によると、若き素月が上京(ソウル)の折、彼を慕う教え子の呉順が、人知れずつつじの花を手に村はずれまで見送ったというエピソードが残っている。

 これが、「岩つつじ」創作の直接的な動機だったようである。

 また、培材高普時代の一番の親友・小説家の羅稲香、そして呉順があいついでこの世を去ったショックが自殺のひとつの原因だと言われている。(金学烈 朝鮮大学校、早稲田大学講師)