わがまち・ウリトンネ(1)/山口県下関市(1) 金正三、姜海洙
日本各地には、朝鮮人が密集して住むトンネ(街)が点在している。なぜトンネが生まれたのか、ひいてはなぜ朝鮮人が日本に住むようになったのか。その経緯を知る1・2世の証言を通じてトンネの歴史を紹介する。
「決して忘れない所」/関釜連絡線の発着所
「1世の同胞にとって、忘れようとしても決して忘れることのできない所が下関なんですよ」
10歳の時、1933年7月に親に連れられ故郷の慶尚南道を離れて渡日して以来、66年間山口県下関市に住む姜海洙さん(76)はこう語る。
下関市は、朝鮮半島の対岸に位置する。1905年、釜山とを結ぶ「関釜連絡船」の定期航路が開設された。これによって朝鮮半島と日本の往来が頻繁になった。以来、多くの朝鮮人が下関港で降り、日本各地へと渡って行った。
なぜ、朝鮮人が日本に渡ってきたのか。それは一言で言うと、日本が朝鮮半島を植民地にし、農作物や地下資源などの物、そして労働力としての人間の略奪を本格化させたからだ。そのため朝鮮人は、生きるための糧(かて)を求めて、日本への渡航を余儀なくされたのである。
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メモ 朝鮮半島から日本への渡航拡大の大きなきっかけとなったのが、1912年から日本が開始した「土地調査事業」。当時、土地の所有関係が明確になっていなかった農村の現状に目を付けた日本は、朝鮮人に日本語での新たな土地所有権の「申告」を義務化させた。
日本語を知らない農民たちは当然、申告ができず、それら先祖伝来の田畑は日本の国有地として没収され、日本人たちに払い下げられた。結果、農民たちは高い率の小作料と地税など2重、3重のカネを払わなければ農業を営めない状況に追い込まれた。物的略奪の始まりである。
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農家だった姜さん一家は、「土地調査事業」によってすべてを奪われたという。だからといって、簡単に渡日できたわけではない。姜さんは当時、父が取った行動を今も鮮明に覚えている。
まず渡航証明書を得るため、先に日本へ渡った兄と2人の姉から送られてくる手紙を面事務所(村役場)に持って行き、日本での行き先、頼る相手を明らかにしなければならなかった。それだけで数ヵ月かかった。そして家や家具を売りさばき、日本までの交通費をようやく確保したが、ほとんど着のみ着のままで日本に渡ったという。
このことからも分かるように、自ら好んで日本に渡ってきた朝鮮人は当時、ほとんどいなかった。(羅基哲)