米国の朝鮮戦争敗北C/朝鮮中央通信
黄泉の客となった「精鋭」師団
朝鮮戦争を挑発した米国は、100余年の侵略戦争史で悪名をとどろかせた「精鋭」師団と「技術的優勢」を誇った海軍、空軍武力を朝鮮戦線に大々的に投入した。しかし、米国の強大性の神話は戦争初期から粉々に砕かれた。
その壊滅の序幕は、米第24歩兵師団の先遣隊であるスミス特攻隊が上げた。師団長のディーンは、戦闘経験が豊富な540余人を特攻隊として組織し、21連隊1大隊長のスミスを隊長に任命した。
スミス特攻隊に大きな期待をかけた米極東司令官のマッカーサーは、第5202砲兵大隊と105ミリ曲射砲をはじめ数多くの砲と37台の軍用車を増強した。 しかし1950年7月5日、戦車の援護のもとに行われた人民軍の攻撃でスミス特攻隊は散り散りとなった。惨敗を挽回しようとした34連隊も人民軍の進撃に敗走した。
米第24歩兵師団は大田(忠清南道)で完全に包囲、消滅され、師団長のディーンは人民軍によって捕虜となった。
マッカーサーは米第24歩兵師団が大田で壊滅の運命に直面すると、彼らを救援するために米1機兵師団を投入した。しかし、その先遣隊は大田に到着する前に人民軍の待ち伏せにあって一掃され、師団は永同(忠清北道)の界線で全滅した。無敵の師団、勝利の師団を誇った米1機兵師団の長い伝統は、朝鮮戦線に投入されて6日で崩れた。
海外侵略史で長い伝統と功績を築き、「ワシ部隊」「海兵の花」と呼ばれた米一機兵師団もソウルの界線戦闘で惨敗した。その後、長津湖(咸鏡南道)での戦闘時、その惨敗を挽回しようとしたが、人民軍の包囲網にかかり散々な目にあった。
一方、銃剣師団と呼ばれた米2歩兵師団も包囲網にかかり、四方八方から攻撃され、黄泉の客となった。
傭兵の悲惨な運命
惨敗を挽回するため米国は、「国連軍」の看板のもとに英国、カナダ、オーストラリア、トルコ、フランスなど15カ国の軍隊を引き入れた。
しかし米・英をはじめ国際反動は、朝鮮人民と人民軍によって度重なる惨敗をした。
朝鮮戦線に最初に乗り込んだ英国の第27旅団(スコットランド)と第29旅団は洛東江界線で人民軍の強力な打撃を受けた。その後、英第27旅団は清川江畔で米軍が包囲された時、その弾よけとなって再び莫大な損失を被った。
51年4月、臨津江界線まで撤退した英第29旅団も、人民軍の包囲から抜け出ようとあがいたが、同士打ちで悲惨な終末を告げた。
50年10月、朝鮮戦争に参戦したトルコ旅団は、米第8軍が清川江以南の界線に作った新陣地に追い込まれた後、人民軍の攻撃によって3日も立たずに完全に壊滅した。
この戦闘で2000余人の将校と兵士が死傷し、1000人が捕虜になった。
この年の9月に上陸したフィリピン軍10大隊(約1200人)は諸戦で壊滅した。
オーストラリア軍司令官も最前線に出たが、兵士と共に即死した。
敵が控え目に発表した資料によっても、52年10月15日までに英国の傭兵1万8578人が死亡、トルコ軍旅団とフィリピン軍はほぼ全滅した。(朝鮮通信、おわり)