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米国の朝鮮戦争敗北B/朝鮮中央通信


月尾島防御戦

 1950年9月、米国は月尾島への攻撃を開始した。月尾島は、京畿道仁川の沖に位置する0.66平方キロメートルの小島である。この島は、仁川市と防波堤で結ばれているだけではなく、仁川港に通じる水路をふさいでいる。

 米国は仁川に上陸して人民軍の主力を「包囲せん滅」する企図から、その関門である月尾島に1000余機の航空機と数百隻の艦船、5万余人の兵力を投入した。当時、3日間の集中爆撃と砲艦射撃で月尾島を火の海にかえた後、9月13日に上陸作戦を開始した。

 島の防御者は、敵艦船を800メートルの距離にまで接近させて奇襲攻撃を加え、駆逐艦2隻を撃破し、小型艦艇2隻を沈没させた。敵は数千発の砲弾を浴びさせたが、防御者を屈服させられなかった。

 翌日、マッカーサーをはじめ米軍上層部は旗艦マウント・マッキンリーで仁川沖に現れ、上陸作戦を直接指揮した。しかし、防御者たちは駆逐艦1隻と揚陸艦6隻を撃沈し、敵の上陸企図を再び破たんさせた。

 激戦3日目の15日、島には1門の砲と、疲弊し負傷したわずかな戦闘員しか残っていなかった。

 2回の上陸作戦に失敗した敵はこの日、最後のあがきを行った。上陸開始前の15分間に島に3000発の砲弾を投下した。

 島の防御者は砲弾が尽きるまで必死にたたかった。彼らは砲弾が投下されると歩兵火力で、果ては肉弾戦で敵を倒し、3日間島を堅持する任務を遂行した。

 その間、駆逐艦3隻を含む各種艦船13隻を撃沈、撃破して、人民軍の仁川―ソウル地域の全般的防御戦の遂行に大きく貢献した。

 

戦勝に寄与した戦法

 金日成主席は、抗日武装闘争時の経験と現代戦の要求に基づいて、人民軍兵士が敵とのたたかいで多様な戦法を創造的に適用するようにした。

 襲撃組、飛行機・戦車狩り組活動、坑道戦、狙撃手組活動がその代表である。

 52年からこうした戦法はより積極的に実戦に導入された。

 人民軍襲撃組員はこの年、前線と後方で重要対象物に対する480余回の襲撃戦を展開し、数万人の敵を殺傷・捕虜にした。とくに52年7月10日には強力な砲兵火力の支援のともに敵が1年以上も陣取っていた351高地を30分で完全に占領した。

 同年、戦車・飛行機狩り組は様々な形式で敵の戦車や飛行機に対する攻撃を展開して200余両の戦車を破壊、1219機の航空機を撃墜させた。

 この時期、坑道戦は1211高地をはじめ前線と海岸防御地帯で大きな威力を発揮した。

 敵はこの1年間に航空隊、砲兵などを動員して1211高地を中心とした地域に1平方キロメートル当たり平均4160発の爆弾と52万7260発の砲弾を用いて、1817回の機銃射撃を行ったが、人民軍部隊は坑道陣地に依拠して敵の攻撃を撃退した。

 狙撃手組(68人)の活動は、前線地帯での敵の個別・集団行動を阻止して人的掃滅に寄与した。

 このほかにも移動歩兵中隊、独立重機関銃組活動など様々な戦法で敵の敗北を促した。(朝鮮通信)