誇り高き拳――在日同胞とボクシング(下)
挑戦/20年目に悲願の初陣
80年代に入り、朝高ボクシング部の公式大会への道が広がり始め、94年にはインターハイという重い扉が開いた。しかしそれまでの過程で、「各種学校」という壁にはばまれ公式大会に出ることなく卒業した朝高選手は多い。各朝高の監督やOB、同胞らの情熱に支えられつつ、朝高選手は先輩たちの無念さと在日同胞の代表としての誇りを胸に、自らの実力で「全国」への道を切り拓いていった。
交流試合から
在日朝鮮人ボクシング協会が結成されたのは83年のこと。協会は選手の技術向上と日本学校との交流を目的に、同年から朝高選抜と日本の東京都選抜や近畿選抜との交流試合を主催し定期化した。
この選抜戦で、日本の高校3大タイトル(インターハイ、全国選抜、国体)を制覇した選手と対戦した朝高選手もいる。現在プロで活躍する洪昌守選手(東京朝高卒)だ。結果はオープンブローによる反則負けだったが、「日本の高校チャンプと言っても力の差は感じなかった。当時は学生中央大会が目標のすべてだったが、これを機に日本の全国大会で力を試してみたいと思うようになった」。
選抜戦で、日本のメジャーな大会の上位入賞者を朝高選手が破ることは珍しくなかった。各監督の努力はもちろん、こうした交流の際に朝高の実力が日本の関係者に認められ、86年には大阪朝高が府連盟に加盟するなど、着々と「全国」への道筋がつけられていく。
「1条校」の壁崩し
90年9月。大阪朝高の李幸治、趙成吉、車千根の3選手が全日本社会人大会府予選に出場した。文部省が定める「1条校」でない朝鮮学校は、高体連主催の公式戦には出場できないからだ。3選手は見事優勝したが、連盟側は本戦出場を拒否。「社会人大会の参加資格は学生、生徒を除く」というのが理由だった。
「高校生と認めているのなら、インターハイへ出場できる場を与えてほしかった」(李選手)
この年の春、同校女子バレーボール部が府大会の途中で出場拒否された問題とも重なり朝高の高体連加盟問題がクローズアップされ、加盟を支持する声が高まっていった。そして、91年度からは全国大会の予選を兼ねない地方レベルの競技大会に限り参加が認められる。大阪はその年に3階級を制覇し団体でも準優勝。後には全日本選手権の都、府予選に出場し優勝する朝高選手も現れる。
有無を言わせぬ実力を見せつける選手たちを後押しするように、加盟を求める同胞の運動も一層活発化した。そして93年5月。全国高体連は、加盟は認めないが「特例措置」として94年度からのインターハイ参加を認める。
「第1世代」の面影
インターハイ元年の94年夏。12人の朝高選手が悲願の初陣を果たした。朝高にボクシング部ができてから20年目にしてたどり着いたリング。結果は東京朝高の3選手が3位入賞。団体でも6位に入った。
銅メダリストの1人、金賢選手は「実力があったのに公式戦に出れなかった先輩たちや、高体連加盟を実現しようと頑張ってくれた同胞たちのためにも絶対負けられなかった」と語る。
初めての大舞台にも怯まない果敢なファイトは、ハングリーだった「第1世代」の同胞プロボクサーの面影と重なる。
今年には大阪朝高の白永鉄選手が選抜大会で初のチャンピオンになった。朝高生の気概を示すため、差別にも屈せずあくなきチャレンジを続けてきた朝高ボクサーたち。一つ道を切り拓く度に、同胞の期待を背負ったその拳は強く握り締められた。時代と場所は変わっても、拳に民族の誇りを込めたプロ選手らの精神は宿っている。(道)