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強制連行、「従軍慰安婦」問題東京シンポ、大阪報告会から


 7月31日に東京で行われた、日本の戦時下での強制連行に関する東京シンポジウムと、1日に大阪で行われた大阪報告会には、合わせて約900人の在日同胞と日本市民が参加し、南北朝鮮から訪日した強制連行、「従軍慰安婦」被害者の証言(証言別項)に耳を傾けていた。東京シンポの当日、中川昭一農水相が就任後初の記者会見で「従軍慰安婦」問題に対する暴言を行った。大阪報告会では、このような暴言が繰り返される責任は日本政府にあるとする抗議文を採択。参加者らは、改めて過去の清算に必要な真相究明のための資料公開を日本政府に求めていくとの意見で一致した。

 

繰り返される暴言

 専門家らが「従軍慰安婦」、強制連行問題をあらゆる角度で報告した今回のシンポで一致していたのは、日本政府に真相究明を求めるとする意見だった。

 大阪報告会では中川農水相ら、閣僚たちの繰り返される暴言の原因の一つが、いまだに日本政府が植民地と侵略に対する真相究明を行っておらず、責任の所在を明確にしていないからだと指摘された。

 空野佳弘弁護士は、シンポで「従軍慰安婦問題は強制連行であり、日本の戦争犯罪だ。国際法に違反する行為であったということは国際的な常識であり、国際的な論争ではすでに決着がついている」と述べた。

 96年の国連人権委員会ではクマラスワミ特別報告官による日本政府への法的責任、国家賠償、責任者処罰を求めた6項目の勧告と、それ以前の94年には、ファン・ボーベン特別報告官による重大な人権侵害に対する被害者への補償の形態を明確にした、国連最終報告書が全会一致で採択されている。

 後は日本政府が勧告に従って法的責任を認め被害者に補償するため最大限努力することが解決への道であるというのが国際社会の共通の認識となっている。

 南の全国挺身隊問題対策協議会の池銀姫企画委員長はシンポで、「従軍慰安婦」問題は終わってはおらず、今後どのような運動を行っていくのか、という問題について「日本にクマラスワミ勧告を履行させること、知識人が何人か集まってやるのではなく多くの人が参加する署名運動をするなど世論の意識を変えていくことが必要だ」と強調した。

 

「基金」への怒り

 南北の元「従軍慰安婦」が同じ場所で証言するのは、今回で2度目となる。元「従軍慰安婦」らの証言は、加害国日本のNGOに問題の重要性を訴えたばかりか、国際世論をも揺り動かした。

 証言の後、2人は記者会見で、「手にお菓子を握らせるようなやり方で補償する気なのか。国民基金は2度殺すことだ」(李京生さん)、「国民基金は野蛮だ。あんなもの誰が思い付いたのか。責任は軍人個人ではなく政府なのだから、補償は政府がやるべきだ」(金允心さん)と、厳しく批判した。

 日本政府は、95年に発足させた「国民基金」が多くの被害者の反発を招いているにもかかわらずいまだ撤収させていない。日本の態度は、血の滲むような思いで行った被害者の証言を無視するものだ。

 

組織的な拉致

 会場で熱心に聞いていた川島裕行さん(22、学生)は「教科書から従軍慰安婦問題を削除するのしないという論争を聞いたことがあるけど、今日の元慰安婦の方の証言を聞いて、頭が少しパニックを起こしている。現実を見せられたというか、証言を聞けば載せる、載せないという論争がなぜ起こるのか疑問にさえ思える。日本の若者は、つらいけど過去のことをもっと知るべきだと思った」と語った。

 また、神奈川朝鮮中高級学校3年の姜華順さん(18)は、「制服で堂々と通学する私たちも時代が違えばどうなっただろうかと考えさせられた。でも何年か前、チマ・チョゴリが切り裂かれる事件が起きた。きちんとした歴史を教えなければ、怖いことが繰り返されるんだと思った」と語り、証言を聞いて、同じ民族として自分に出来ることを考えていきたい、と話していた。

 シンポに参加した共和国の「従軍慰安婦」および太平洋戦争被害者補償対策委員会の梁達柱委員長が述べた「朝鮮民族への集団、組織的な拉致であり、民族抹殺政策として裁かれるべきだ」との主張にあるように、強制連行、「従軍慰安婦」問題と関連した日本への追及の声は日本が過去を清算するまで決して止むことはない。

 

証言

1日に15時間の重労働/金世国さん(72)

 平安北道義州面で生まれた。大家族だった。父は小作をしており家は貧しかった。家族のほとんどが文盲だったが、父は貧しくても長男だった私だけはとやっとの思いで学校に通わせてくれた。

 14歳の時、鈴木という校長と工藤という教師に呼ばれ、日本に行って技術を学ぶようにと言われた。家族に別れを言う間もなくそのまま新義州の東洋綿花株式会社に連れて行かれた。

 そこで過酷な労働に従事していると、今度は全員日本に連れていくと行って、新義州から釜山に行き、「こんごう丸」という船に乗って日本の和歌山県にある内海紡績工場に着いた。

 毎日、午前8時から午後11時まで15時間の重労働をさせられ、手を休めると殴られたり、暴行を受けた。

 ある日、中野という日本人に殴られて倒れてしまい機械に左腕を挟まれたが、治療もできず、それから左腕が動かなくなった。

 工場の環境はとても悪く、同じ故郷のリ・ミョンジャという娘は重労働の末、薬が入ったタンクに落ちて死んだが、朝鮮人だからといって葬式をすることもできなかった。そのほかにも工場で重労働をさせられて死んだ人がいた。

 あの時は、国もなく訴える所もなかったが、今は共和国公民として堂々と日本に来て訴えることができる。日本は1日も早く過去を認め謝罪すべきだ。

 

目前で4人が殺された/李京生さん(81)

 咸鏡北道漁郎郡で生まれた。3歳で母を、六歳で父と祖母を亡くし、8歳の時に地主の家に子守として入った。

 1929年の12歳の時、地主の家に3人の日本人が来て一緒に酒を飲んでいた。その夜、地主と村の区長が部屋に来て、日本人が工場に連れていくからと、私を外に引っ張っていった。

 外に出ると車が止まっていて、中には私のほかに4人の娘が乗っていた。皆私と同じ年位だった。

 到着した慶尚南道昌原という所の人里離れた場所には鉄条網があり、10メートル間隔で日本の軍隊の歩哨が立っていた。

 工場で働くと言っていたのに、最初は東郷という将校の足を洗ったり、爪を切ったりさせられた。

 何ヵ月かして、広い空地に集められ、一列に並ばされた私たちの中から将校が気に入った娘を選んでいった。その日、私を選んだ将校に暴行された。

 その後、「慰安婦」として1日、20人の軍人の相手をさせられ、休みの日はさらに多くの軍人が列を成した。拒否したり声を上げると殴る、蹴るの暴行を受けた。私のいた慰安所で4人の娘が殺されるのを目撃した。死体は近くの川に捨てられた。

 日本は自分たちのやったことを認めるべきだ。あれだけ多くの朝鮮人女性を殺してなぜ、平気でいられるのか理解できない。補償は心からやるべきだ。

 

生き埋めにされた娘も/金允心さん(69)

 全羅南道海南で生まれ8人兄弟の3番目だ。家は裕福だった。

 ある日、家の外でゴム飛びをして遊んでいると、車が近付いてきて、いきなり私を乗せて行った。車からトラックに乗り換え、中国のハルピンに着いた。

 私は、世間知らずな16歳の娘だった。部屋に入れられると夜、軍人が幾人か来て服を脱げと言われた。その日、あまりにも泣いたので顔は浮腫み、お腹は空いて、とにかく生きるために従った。真冬でも寝間着のような薄着で過ごした。

 ある日、庭から人の手のようなものが見えたので掘ってみると死体が出てきた。妊娠して病院に行ったとばかり思っていた娘が、生き埋めにされていた。

 私は怖くて、抜け出そうと決め、逃げ出した。1度目は掴まり、その時軍人から酷い拷問を受けた。意を決してまた、抜け出した。2回目に成功し、家に帰ることができた。

 その後も誰かが私を知っているのではないかとひっそりと暮らし、いつも過去に怯えていた。

 でも、私がこうして証言しようとしたきっかけは、92年頃、新聞に「慰安婦」のことが載り、日本がそんなことはなかったとか、「慰安婦」はお金の無い家の娘がお金を稼ぐためにやったなどと書いていたのを目にしたからだ。

 歴史は隠せない。「国民基金」などやめて一番近い国なのだから本当の事を明らかにして仲良くしたい。