民団中央は同胞社会で民族性を守り、真の和解と団結の道を歩まねばならない
民族的団結は同胞社会の限りない力の源泉であり、団結の絆は民族愛、同胞愛である
民族性を守り、民族愛と同胞愛で団結することは、どの国、どの人間社会でも重要なことであるが、異国、とくに過去、植民地宗主国であった日本に暮らす在日同胞にとってはより重要なことである。
在日同胞は各自、思想信条や資産の大小、団体、所属の違いなどの差異こそあるが、同じ社会歴史的立場から喜びも悲しみも苦しみも希望も共に分かち合うことができるし、また分かち合うべきハンギョレ(同胞)である。
わが同胞は互いに信じ、愛し合い、団結した力で民族の尊厳と権利を守り、生活を開拓していかなくてはならない。
こんにち、同胞たちの間で世代交替が進み、精神文化生活と経済生活で大きな変化が起こっている現実から見ても、近付く21世紀を統一の新世紀として迎えようという時代の要求から見ても、民族性を固守し、団結した在日同胞社会を作ることは、民族団体を名乗る以上、課せられるべき崇高で重要な歴史的使命であり、責任である。
在日同胞が強く望むのは、反目と対決ではなく、和睦と団結である
在日同胞は団結こそ民族の威力、誇りであり、団結の中に同胞社会の喜びと幸福も、統一の希望も約束されているという、熱い念願と確信を抱いている。
1991年、第41回世界卓球選手権大会に参加した「コリア」統一チームに対する総聯と民団の共同応援の日々に、わが民族の娘たちが南北一つとなって民族の気概を世界に轟かせた時、手に手に統一旗を振って抱き合い、勝利の感激と喜び、団結の誇りと統一の確信に沸き返ったその瞬間を忘れられない。
しかし、噴火口のように盛り上がった民族愛と同胞愛、民族的団結の機運が急激に冷め、踏みにじられ、こんにちに至っては同胞社会における分裂と対決の様相が最悪の状態となってしまった。
これは、反民族、反統一分子である金泳三が、在日同胞社会の前に犯した大罪である。
金泳三は「吸収統一」の妄想に囚われ、反北対決策動に狂奔し、90年代前半にせっかくもたらされた祖国統一の転換的契機も熱い全民族の念願と期待をも踏みにじり、統一への道程に取り返しのつかない5年間の空白と後退を生み出した。
民団中央は辛容祥を団長にしてから4年数ヵ月、一貫して金泳三に盲従してきた。
辛容祥は、中央団長の座に着くやいなや金泳三の「吸収統一」妄想をもろ手を挙げて支持し、「総聯を吸収統合して北に自由の風を吹き込まなくてはならない」という「指示」を受け入れた。
それは、94年9月にあった「民主平和統一諮問会議」という場で、「民団の歴史は総聯とのたたかいの歴史」であり、「総聯を吸収統合するのは民団の使命」、「最大の愛国行為」だと公言した事実が示している。
金泳三は、民団中央幹部らを再三ソウルに呼び、安企部要員をはじめ様々な人物を日本に送り込んで「北の崩壊」をうんぬんし、「今この時が、総聯を瓦解させる絶好の機会」だと焚き付けた。
こうした企図のもと、民団中央は95年8月、総聯中央との間で1年近くにわたる協議の末に基本的に合意し成就直前にあった「祖国光復50周年記念共同文化公演」を不当な理由で破たんさせ、その責任を他に転嫁した。
その時からこんにちまで、民団の各種集会や民団新聞紙面には、連日のように共和国と総聯をひぼう中傷し、攻撃する言行や、敵意に満ちた記事が溢れている。
民団中央執行部が運動方針の中心の一つとして打ち出した「接触、交流、和合」も、その内実は安企部が「筍の皮を1枚1枚はがすように、末端の同胞を引っ張ってくるべき」としながら練った「総聯瓦解へのシナリオ」だった。
総聯を瓦解させ「吸収統合」しようということ自体、妄想に過ぎない。
しかし問題は、総聯はもちろん、民団傘下同胞たちの志向と念願をも踏みにじり、同胞社会に反目と対立以外にもたらすものは何もないその罪過にある。
だからこそ、民団幹部の間からさえも「民団中央はいつから安企部の日本支部になったのか」という非難の声が高まり、「民団中央の言う『積極的な接触、対話』とは、総聯組織瓦解のための看板」であり、「民団と総聯間の対決だけを引き起こすことになる」との憂慮が出てきている。
民団中央は、金泳三が全民族の怒りを買い死に体となった事実から当然の教訓を得て、彼に盲従してきた過去を冷静に振り返るべきだろう。
在日同胞社会においては、民族的自主性を生命として守らなければならない
国と民族は、人間の人生の土台であり、運命開拓の基本単位である。
人間の尊厳と権利は、その人がどこで生きていようが、自主権を自らの手に持つ民族の一員として生きることにその根本がある。
たとえ海外に暮らしていても、人間の運命は自国、自民族の運命と一つに深く結ばれている。
その根本を失った時、在日同胞は団結の基礎を喪失することになり、同胞の運命は他国、他民族の従属物となってしまう。
ましてや在日同胞は自主独立国家の堂々とした海外公民であり、日本国民を構成する少数民族でもなく、「何々系日本人」でもない。
在日同胞は主体性と民族性を固守し、固く団結して民主主義的、民族的権利を擁護し、行使していかなくてはならず、北と南、海外の全同胞との民族的大団結で、祖国統一偉業実現の道で繁栄と幸福の前途を開拓していかなくてはならない。
在日同胞の運命に責任を持つという民族団体の根本的立場も、民族的自主性を固守するのか、侵害されるのかというこの根本的問題を尺度にして熟慮することにある。
しかし、民団中央の現執行部はその座に着くやいなや民族の自主性を固守すべき根本問題には背
を向け、日本での「参政権獲得運動」を自らの「基本方針」、「最重要中心課題」として前面に押し出した。
日帝時代、親日派によって提唱された、朝鮮民族を日本帝国主義に忠実な「皇国臣民」として隷属させるための売国的、反民族的行為がまさに「参政権運動」であった。
民族的良心があり、歴史と物事の道理を正しく見ることを知る人は誰もが、民団中央が繰り広げている「参政権獲得運動」が日帝時代の「皇民化運動」を彷彿させるとして、憂慮と警告の声を高めている。これは、あまりにも当然の世論であろう。
民団中央が繰り広げた「参政権獲得運動」は、在日同胞に対する南朝鮮歴代当局者の棄民政策に追従し、日本当局の同化政策に屈する行為だというところにその本質がある。
60年代、犯罪的な「韓日条約」締結騒ぎを繰り広げていた当時、南朝鮮の「外務部長官」は「在日僑胞は将来、日本に同化する運命にある」と述べた。この妄言は、歴史上に洗い流すことのできない汚点を残した在日同胞に対する棄民政策の現れであり、日本反動勢力の同化政策との野合であった。
現在の民団幹部らが「在日同胞は同化することが歴史的運命だ」と述べている事実や、「在日同胞は日本で模範的な市民として生きるのが理想」だと「宣言」した事実は、「参政権」騒ぎの本質を雄弁に語っている。
民団中央は「参政権獲得」が在日同胞の「人権のための基本問題」であり、「日本社会の内なる国際化、民主化」に寄与し、「共生の新時代を創出」する「21世紀を志向する運動」だと自画自賛している。また内外の強い反対世論に対しては、この運動が同化や帰化ではなく「民族的矜持と自負心」「民族的主体性」を持った運動だと美化、粉飾している。
しかし、こうしたすべての美辞麗句がいかに虚構に満ちた詭弁であるかは、次のような事実からも明らかだ。
日本のある政党が「定住外国人も党員として受け入れる」とするや、その政党中央に駆け込み、「われわれを最初に入党させてくれ」と頼んだのは、民団中央の幹部たちだった。
さらに「参政権」提唱者たちは、選挙人名簿に民族の本名ではなく日本の通名で登録することも研究すべきだとする「第2の創氏改名」論まで持ち出してきた。
こうした事実を見ても、「参政権」騒ぎが在日同胞社会にいかに悪影響を及ぼすものであるかは火を見るより明らかだ。
「参政権」騒ぎは、その本質から在日同胞の主体性と民族性固守に寄与するどころか、むしろそれを去勢し、放棄させる。
同胞を団結させるのではなく無数にある日本の政治勢力の数そのままに4分5裂、霧散溶解させ、同胞の民族的権利擁護と生活向上のために提起される諸問題を自主的に解決する道を開くどころかその道を妨げ、混乱に陥れる。
在日同胞が「参政権」騒ぎを非難しているのは、民団中央が「参政権獲得運動は総聯同胞を総聯組織から引き離すにも効果的」だとしながら、民団組織をあおっている不純な政治的企図のためでもある。
こうした企図から民団中央は団長会議、3機関長会議、事務局長会議などを度々開き、「参政権」を地方自治体議会で決議させることに総力をあげるよう促してきた。
しかし最近、地方自治体議会などで民団の要望書、陳情書がそのまま採択されることが少なく、それどころか以前に採択された決議を取り消す議会が続出していることに対し、民団人士らの間から「これ以上どうしろというのか」「総聯の反対意見にも一理ある」などという声があがるなど挫折感が蔓延し、この「運動」が誤りだったと後悔する人も増えている。
こうした中、民団中央は窮余の策として「在日韓国人だけにでも参政権を」という同胞分裂策を持ち出すかと思えば、日本の国会で直接「参政権付与の立法化」を成就させようと日本の各政党と国会議員らを訪ね歩いている。
「参政権獲得運動」がいかに反民族的で反同胞的な運動であるかは、最近、民団を含む各界各層同胞有志が開いた「在日同胞の民族性を守る会議」にまで挑戦を加えてきた民団中央の行為それ自体が如実に示している。
この会議は、民族性が失われていく悲しい現実を座視できず、在日同胞学者、文化人、宗教人、社会運動家などの各界各層人士らが思想信条と団体所属の違いを超えて席を共にし、民族性固守のために在日同胞が全社会的な運動を繰り広げていこうと呼びかけた会合だった。
会議参加者らの総意で「参政権」反対の意思を込めて発表した「アピール」と「故国同胞に送る文」は大きな反響を呼び、会議事務局には、在日同胞と南朝鮮の幅広い各界から共感の手紙やメッセージが、連日のように送られてきているという。
しかし、民団中央はまったく違う反応を示した。さらには南朝鮮紙ハンギョレが「故国同胞に送る文」を掲載したことに対し、「敵性団体」である総聯に利用された「利敵行為」だとして抗議行動まで行った。
民団中央のこうした言動は、民族性喪失の現実を憂える気持ちから団体所属の違いを超えて席を共にした在日同胞各界人士の民族的良心を侮辱する行為である。このことについて、民団中央は恥じるべきだろう。
民団中央は、在日同胞はもちろん、南朝鮮と海外の同胞、日本の公正な世論の間でも日増しに高まる「参政権」騒ぎに反対する声を無視してはならない。
民団中央は、反民族的で反同胞的な本質も、それが及ぼす悪影響も、すでに内外に露になった「参政権」騒ぎをすぐに中止し、民族自主と民族団結を自己の活動の根本原則にすべきだろう。
新しい世紀に向け、民族愛、同胞愛の道へと進まなければならない
20世紀を締め括り21世紀を迎えようとするこんにち、在日同胞社会では、故国の故郷の地で生を受けた1世はもういくらも残っていない。
異国の地、日本で生まれ育った2世に続いて3世たちが同胞社会の主役として登場し、4世、5世が生まれるなど、世代交替が進んでいる。
そればかりか日本では、厳しい生存競争の嵐が強く吹き荒れる中で民族差別は変わらず続き、祖国分断と民族分裂の悲劇もいまだに終わっていない。
こんにち、在日同胞社会において最も重大なことは、民族の代、愛国の代をしっかりと継いでいく問題である。一方、最も悲しい現実は、民族意識が薄れ、民族性を喪失する現象が濃厚になっていることである。
わが同胞と民族史は、21世紀を祖国統一と新たな民族復興の世紀として迎えようと、活火山のように沸き上がっている。しかし、新世紀に祖国統一の新たな歴史の主人公として生きていかねばならない在日同胞の新世代の間では、民族結婚より国際結婚の数が増えているうえ、子供たちを民族の魂である母国語も知らない日本人のように育て、「帰化」の道を選ぶ数が日増しに増えている。
こんにち、在日同胞社会は民族の代を継いで行くのか、それとも継いで行けないのかという岐路に立っている。
この分かれ道で、民族的愛国運動を標榜する団体と人々の良心に問いかけている時代の問いは厳粛である。
民族性を固守して団結し、在日同胞社会と後代の未来のために、これまでしてきたことは何であり、これからしようとすることは何なのか。
とくに民族教育事業は、在日同胞社会で民族性を守り、代を継いで民族的に団結していくための生命線であり、新時代の頼もしい主人公を育てる在日同胞社会の何よりも貴重な心の拠り所、希望の礎である。後代のため、未来のために総聯は何をし、民団は何をしたのか。
総聯の周りに結集した愛国的同胞は過去40余年間、内外反動勢力のあらゆる弾圧と迫害を民族愛と同胞愛、団結の力で乗り越えながら、少しずつ集めた血と汗の染み込んだお金で学校を建て、教員を養成し、教科書も編纂して自らの力で民族教育を守り、発展させてきた。
総聯の貴い愛国愛族伝統で彩られたこの歴史と業績がなかったら、そして累計10万人にものぼる子供たちに母国語で民族の歴史と文化を教え日本社会で民族の息子、娘として堂々と生きていく自覚と素養を培って来なかったら、こんにちのような在日同胞社会は存在しなかっただろう。また希望ある将来も展望できないだろう。
しかし民団は創団以来、これとはまったく違う道を歩んできた。それどころか総聯の崇高な民族教育事業を終始一貫してひぼう中傷し、妨害、阻害してきた。さらに民団同胞が子供たちを朝鮮学校に送ることを罪悪視してきた。
最近にいたっては、「『国際化』『世界化』時代に民族性を主張するのは時代錯誤」であるとし、われわれの民族教育を「愚民化教育」とまで言っている。そんな彼らの「時代観」「民族観」「教育観」こそ、ゆがんでいると言わざるを得ない。
彼らは日本社会を「多民族文化受容社会」「国際化された社会」に作り、日本人と「共生、共存」するのだと声高に言う。
では聞きたい。民族の言葉と文字、歴史と文化も知らず、日本の「単一民族文化」、それも欧米化した日本社会の風潮に染まり、同化した民族性喪失者たちが、どのようにして「多民族文化社会」に寄与し、他民族と真の「共生、共存」関係を築くことができるのか。
総聯の民族教育は、在日同胞の新世代を有能な民族人材、誇らしい国際人に立派に育てている。
これについては良識ある民団同胞はもちろん、南朝鮮の各界各層人士、世界各国で暮らす僑胞、日本の教育界をはじめとする広範な国際世論も認めており、賛辞さえも惜しまない。
南朝鮮人士と海外同胞たちが日本を訪れる機会に、必ず参観したいというのが民族学校である。
彼らは朝鮮大学校をはじめ各級学校を参観し、「外国で、それも過去の植民地宗主国であり民族差別
と迫害が根強い日本で、幼稚園、初級学校から大学までの整然たる教育システムを整えて立派な施設を作り、民族教育を行っていることは想像を絶する一つの奇跡だ」、「総聯の民族学校で躍動する民族の気概に触れることができた」、「朝鮮大学校は総聯と在日同胞だけでなく民族の誇りである」などと感激していた。
しかし民団中央は、総聯の民族教育に感嘆するどころか、「精神異常者」という口にするのもはばかられる言葉を使って冒とくした。
異国で生まれ育った青少年たちが、民族の気概溢れる学校で誇りと希望に満ちて民族の言葉と文字、歴史と文化を学び、立派な民族人材、誇らしい愛国者として育つ教育を正しいとする人々と、口では「民族教育の振興」を唱えながら、子供たちを日本学校に送り「日本人化教育」を受けさせている民団幹部の、一体どちらが「精神異常者」という言葉に相応しいだろうか。
民団中央は、民族教育を冒とく、妨害することを中止し、総聯だけが持っている整然としたシステムの民族教育の広き門に、民団同胞の子供たちも入れるようにすべきだろう。
総聯の各級学校は、民団同胞子女にも民族教育の門戸を広く開いている。
総聯は、彼らを熱い同胞愛と高い責任感、崇高な貢献性で温かく包み、民族の立派な息子、娘に育てるだろう。
時代の要求も、在日同胞社会の志向も、罪深き反民族、反同胞の道ではなく、崇高な民族愛、同胞愛の道、反目と対決ではなく真の和解と団結を望んでいる。
民団中央は、総聯と民団の1世、新世代の青年学生、商工人、女性、学者、芸術家、宗教人、社会活動家が、同胞地域社会で一つのコミュニティーを形成して生活の喜怒哀楽を共にし、同胞と後代のため、祖国統一のために手を取り合い、合同で行事を開いたり、共同で行動することを奨励すべきである。
在日同胞は、民団中央が金泳三に盲従してきた過去の行為を深く自省し、新たに登場した南朝鮮政権の在日同胞政策にどう対応するのか、崇高な民族愛と同胞愛、民族団結の道へと進むかどうかを注視している。
民団中央が今こそ民族と在日同胞の切実な要請を厳粛に受け入れ、同胞と後代の将来の幸福と、統一偉業の実現のため、在日同胞社会でこの上なく大切な民族性を守り、真の和解と団結の道に進むよう願う。