共和国の映画「プルガサリ」を観て/谷有二(たに・ゆうじ 文化史研究家)
民俗学的面白さにひかれる/戦争と平和 民話を借りて今日に警告
鉄の怪獣の誕生
時代は高麗朝の末期。場面は、とある村の鍛冶屋の風景から始まる。老鍛冶屋タクセの美しい娘アミ、婚約者のインデなどが登場して、一見のどかな雰囲気が流れるが、民衆は朝廷の圧政に苦しめられていた。
この国でも指折りの鍛冶の腕を持っていたタクセは、農民から無理やり取り上げた農具を、武器に鋳なおすように命令される。しかし、人々の困窮を見兼ね、タクセは「プルガサリに食べられた」といって、こっそり農民に返してしまう。「何を馬鹿な、プルガサリなどいるはずがない。農具をどこに隠した」と拷問を受ける。
アミと弟のアナが届けてくれた飯粒で、小さな人形を作ってタクセは息絶える。兄弟は父親が握り締めていた人形を形見として大切にしていた。ある日、裁縫の針で怪我をしたアミの血を浴びて人形に命が宿る。それが、小さなプルガサリだったのである。愛嬌のある動き……。そして、針や金具を食べてたちまち巨大化したプルガサリは、立ち上がった農民軍とともに、朝廷軍を次々に打ち破って行く。ところが、戦いが終わって平和が訪れた後も、プルガサリは鉄を食べ続け、民衆の守護神から巨大な厄介者になってしまう。
映画は、朝鮮半島に古くから伝わるプルガサリ伝承を元に、美しくも悲しい民話に構成されて、当時の民衆の生活にも細かく目を配る。巨大なセット、1万人にも及ぶエキストラを動員した戦闘場面は、スペクタクル溢れる躍動感がある。
「鉄は国家なり」
撮影の話題としては、プルガサリの中には、日本のゴジラ俳優である薩摩剣八郎が入って、ユーモラスな動き、堂々とした迫力ある動きを熱演している。時を同じくして、動きの早いアメリカ版ゴジラ映画が日本に逆上陸して劇中で魚を食べる。プルガサリは鉄を食べる。実は、この鉄にこそ重要な鍵が秘められている。民話としてはアミは悲劇のヒロインだが、この映画のテーマは叙情味豊かなストーリとは別のところにある。
鉄を食べて成長するプルガサリ(不可殺)は鉄を象徴する伝説だ。鉄が農具に使われれば生産は増大して農民に富をもたらすけれど、武器として使えばこれほど危険なものはない。
「鉄は国家なり」。古来から国家の統合は鉄の武器によってなされたのである。そして、平和を達成したあとも限りなく鉄を欲するプルガサリ……。
自らの血が生み出したプルガサリを、自分の命を犠牲にして消し去ろうと決心した時、アミは非常に大切なことを口にする。「この国の鉄を食べ尽くしたら、人々はプルガサリを他の国に連れて行って鉄を食べさせようとするだろう。そうしたら、戦争が世界中にひろまって大変なことになる」武器を作り出した人間が、武器をセーブできなくなってしまう。私たちの先祖は民話を借りて、今日に警告を発しているのである。
朝鮮を旅したい
この映画に秘められた民俗学的な面白さにもひかれる。全身鉄の怪獣には手も足もでない朝廷軍は、巨大な弓でプルガサリの目を射る。
話は変わって、日本の瀬戸内に伝えられる「鉄大人の伝承」でも、朝鮮半島から攻め寄せてきた鉄人に西日本は制圧されてしまう。そこで、越智の益躬(ますみ)が、足の裏にある目を射て討ち取る話とも共通性がある。優秀な鉄の技術は朝鮮半島から日本に伝えられたものなのである。
朝廷軍の最後のあがきは、大砲を造って攻め寄せる農民軍とプルガサリを倒すことだった。
その場面には2基の縦型・製鉄炉が揃えられ、鉄を造り出す考証に十分注意が払われていることがわかる。
製鉄炉を日本でタタラと呼ぶ。歌舞伎用語で「タタラを踏む」というのは、火力を強くするために、足踏みフイゴで風を送るスタイルを表す。
タタラで鉄を造る職人は、覗き穴から片方の目で火力を確かめる為に一眼を痛める。一つ目・一本足の妖怪の正体はここにあるといわれる。ギリシャ神話でも一つ目の巨人が鉄を打つのである。「鉄」の朝鮮古訓は「カチ」と読む場合がある。タタラという用語も朝鮮語に由来するのではないかと思われる。画面に緩(ゆる)やかに流れる民話の時に、様々な連想が脳裏を駆け巡った。
8月には「桃太郎伝説」の原点となった、朝鮮式山城「鬼(キ)ノ城」に、百済の王子・ウラの片目と製鉄炉を追って、吉備地方に行かねばならないし、プルガサリ伝承を尋ねて朝鮮を旅してみたいとも思った。(たに・ゆうじ 文化史研究家)
1時間35分。提供=アジア映像センター、配給=レイジング・サンダー。東京に続いて大阪、札幌でも公開予定。
東京は4日からキネカ大森TEL 03−3762−6000、
大阪は18日からテアトル梅田TEL 06−359−1081、
札幌は8月1日からシアター・キノTEL011−231−9355で。