米国は朝鮮戦争挑発者/朝鮮中央通信B
武力侵攻の開始
米国は1950年6月25日、共和国北半部に対する不意の武力侵攻を開始した。
米国は本来の計画より1時間早めて明け方の4時に総攻撃を始めた。
米国は戦争開始の数日前から軍事境界線一帯で、共和国北半部に対する軍事的挑発を連日行い、武力侵攻の口実を得るために策動した。米国の指令に従って南朝鮮は38度線以北地域に対する大々的な砲射撃と奇襲作戦で情勢を緊張させた。
そして、南朝鮮軍第2戦闘司令部管下の連合部隊は、戦線中部と東部で25日午前1時から襲撃戦闘を行い、午前4時から38度線を越えて方向別に攻撃を開始した。
米国の図書「朝鮮戦争の歴史」は、重要地域に向けて大部隊で進撃した南朝鮮の第17連隊は、甕津半島から奇襲攻撃を行い、北朝鮮内の5マイル地点にある海州を占領したと記した。ソウル放送は当時、甕津地区の第17連隊は海州市を占領し、国軍主力部隊の一部は38度線から20キロ地点まで進撃していると報じた。
米国は南朝鮮をけしかけて朝鮮戦争を挑発し、米軍が介入すれば戦争を「勝利のうちに終えられる」と打算した。
米国の図書「アメリカ現代史」は、「北朝鮮軍は南朝鮮軍の不意の攻撃から2、3キロ後退したが反撃に出た」と記した。
「北の奇襲説」の虚構性
米国は戦争勃発の責任を共和国に転換するために「北の奇襲説」を考案した。しかし、これが、戦争挑発者としての正体を隠すための米国の欺瞞宣伝にすぎなかったことが白日の下にさらされた。
世界の公正な世論は、「北の奇襲説」を主張する米国の論理において「解けないのは、謀報資料によって攻撃が準備されていることを察知していたはずなのに、なぜ、ワシントンは不意の打撃を受けたと主張するのか。38度線での行動開始のような軍事活動の準備を、朝鮮のような国で米国の諜報機関が察知できなかったのはおかしなことである」(米国図書「秘史 朝鮮戦争」日本語版)と主張した。
当時、米中央情報局(CIA)とその他の諜報機関が「奇襲」のための共和国側の軍事活動準備を察知できなかったのは、共和国がそのような活動を全く行わなかったからである。
これについて当時、南朝鮮駐屯軍事顧問団団長のロバートは50年5月28日、マスコミに「38度線で北朝鮮軍の増強は認められない」(米国図書「米国と朝鮮戦争」日本語版)と述べている。
米極東軍司令官であったマッカーサーもまた、51年5月、米議会上院外交委員会聴聞会で朝鮮戦争勃発について、「要するに北朝鮮軍は38度線から非常に遠く離れた場所に配置されていた。それは防御のための配置であって攻撃のためのものではなかった」(日本の図書「朝鮮戦争」)と証言した。
諸般の事実は、北によって朝鮮戦争が勃発したと宣伝した米国の「奇襲説」が完全なねつ造であったことを示している。