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投稿/鄭周永氏の訪北を見て 南永昌


朝鮮牛について

 6月16日、南朝鮮・現代グループの鄭周永名誉会長が、牛500頭を連れ板門店を経由し、訪北した。

 その様子はテレビでも放映された。黄色の毛並みと柔和な目をした朝鮮牛が、トラックに満載され、続々と38度線を越えていく光景は、ほほえましくもあり、感動的でもあった。

 鄭名誉会長は板門店で、「ここを通るのは18歳の時以来だ。貧しい農家の息子に生まれた私は、父が牛を売った金を持って家出した。そして忍耐強い牛を誠実と勤勉の象徴として人生を歩んできた。その1頭が1000頭になった。借りを返すために、故郷を訪ねる。これが南北の和解と平和の基礎になることを願う」(朝日新聞6月16日付)と語った。

 南朝鮮最大の現代グループは、歴代「政権」と癒着して伸し上がったグループである。その面から言えば批判的見解がなきにしもあらずだ。しかし鄭名誉会長のコメントには、現代グループのトップとしてではなく、民族の一員としての様々な思いが、込められているように思える。ある古書店で偶然に見つけた「朝鮮牛の話」(岩永書店刊、1949年2月)を読み、なおさらそう思えるのだ。

 この本は、朝鮮牛について学術的ではなく、牛の特性や農耕での働きについて平易に語ったものだ。著者の松丸志摩三氏は、畜産関係の研究者と見える。著者は執筆の動機を朝鮮牛への正しい知識を持ってもらいたいことにもあるが、「日本は過去30数年にわたって朝鮮を植民地にして数々の悪業を積み、その間われわれは意味のない侮べつを朝鮮人に加えてきた」との反省から、「今後二度と誤りを犯すことなく、お互いがよく理解しあう」一つの手段にもあると強調している。

 著者は朝鮮牛が、「牛の中でもじつに立派ですぐれた素質を持つもので、朝鮮人が世界に誇ってよいものの一つ」と高く評価している。そして「一口に言えば朝鮮牛は、あらゆる牛の中でも、一番人の言うことを聞き分け、おとなしく、仕事熱心で、その上たいへん粗末な食べ物に耐えゆく力が強い」と優れた特性をあげている。

 日本帝国主義時代の日本人も「朝鮮牛は体質偉大にして、性質は至って温順、加えるに筋肉剛健なれば、役用に適すると同時に肉用としてもまた佳良である」(「現代の朝鮮」1927年2月)とか、「朝鮮牛はその性、最温順にして、強壮各種の抵抗力に富み、労役に耐え、とくに山地の耕作に慣らされる点は、その特徴とするところ」(「朝鮮風俗集」1914年11月)と優秀性の認識を共にしていた。

 朝鮮農民にとって牛は、貴重な労働力であったばかりではなく、家族同様の家畜だった。牛への慈しみは、稲わらを牛車に十分載せられても、牛に少しでも負担をかけまいと、農夫がその一部を背負子でかつぐ姿にも見られる。

 また李朝時代のある宰相が、田を耕している2頭の牛を見て、「どちらがよく働くのか」と牛に聞こえないように耳打ちでたずねたという故事からも、牛に対する朝鮮人の愛情が伝わる。

 しかし牛は、とてつもなく高価で、貴重な財産だっただけに、日帝支配下の貧しい朝鮮農民にとっては到底手の届かぬ高嶺の花でもあった。それに拍車をかけたのは日帝の植民地農業政策と朝鮮牛の計画的収奪だった。日帝は「土地調査事業」の名目で、朝鮮農民から土地を奪い、封建時代の地主、小作人制度を温存させることにより、貧富の差をますます拡大させた。極貧の農民には牛の購入は果たせぬ夢だった。

 「朝鮮の牛」の著者は、日本のどんな片田舎でも見られる朝鮮牛は、「明治の末頃、日本の侵略主義者が武力に訴えて、日韓併合という名の下に、朝鮮を日本の植民地にして以来のわずか3、40年の間に渡ってきた牛」と指摘している。そして侵略主義者らが朝鮮を抑圧して奪いとってきたものの内、牛は「重要なものの一つ」であったことを明らかにしている。その数の多さについては、日本で飼われていた約200万頭(1949年当時)の内、朝鮮牛が約50万頭を占めるとのことだった。

 日帝は朝鮮牛を「種の改良」などとの口実で、労役や肉の採取、もしくは皮革製品の原料として大量に奪っていったのである。

 こうして見れば、貧しい農民出身の鄭名誉会長の板門店でのコメントには、日帝の悲痛な体験と、貴重な牛を手放さなければならなかった父の無念さを想う心情が込められていたように思えるのである。

 日本の報道記事では、成功者が故郷に錦を飾る「快挙」、困窮している同族に手をさしのべた「美談」とばかりに報道しているが、それは平面的理解である。 今回の牛の贈与に限らず、朝鮮に関連したすべての出来事は、過去の歴史的事実を振り返り、その流れの中でとらえるべきと思う。(朝・日近代史研究者、西東京在住)