特集//4・24教育闘争から50年
民族教育守ってきた在日同胞
連合軍総司令部(GHQ)と日本政府の弾圧から朝鮮学校を守るための同胞たちのたたかい、4・24教育闘争(1948年)から50年が過ぎた。これを機に @4・24教育闘争とは何だったか Aその後の主な民族教育権擁護・獲得運動と成果 B運動の現状――についてまとめた。
◎4・24とは何か
教育の自主権求めGHQと日本政府の弾圧と闘う
民族の言葉取り戻し
1945年8月15日の祖国解放後、日帝支配下の皇民化教育によって奪われた民族の言葉を取り戻そうとした同胞たちは、日本各地で手作りの「国語講習所」を続々と開いた。同年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝聯)は民族教育事業に力を注ぎ、「講習所」を学校へと発展させた。46年までにその数は541校に上った。
しかし、敗戦国日本を占領していた連合軍総司令部(GHQ)は朝鮮学校弾圧政策を取る。
南朝鮮での単独選挙強行に続き朝鮮侵略の準備を急いでいた米国にとって、「祖国統一を望む私たちは目障りな存在だった。だから、同胞たちの拠り所である朝鮮学校をなくしてしまおうとしたのだ」(当時、朝聯兵庫県本部青年部長代理を務めた金聖泰さん、73)。
警官の銃撃の犠牲に
GHQの意向を汲んだ日本政府は朝鮮人による自主的な民族教育を否定。48年に入り、各都道府県に、朝鮮学校に学校教育法による認可を求めさせ、その認可を受けない場合は閉鎖させるよう指示する。
これに対し朝聯は3月6日、朝鮮人の教育は朝鮮人の自主性に委ねるべきだなど6項目の要求を文部省に提出し、回答を求めた。しかし文部省は回答を拒否。3月31日に山口、4月8日に岡山、10日に兵庫、12日に大阪、20日には東京の各都府県で学校閉鎖令が下される。
同胞たちはこれに抗議し、各地で立ち上がった。なかでも兵庫と大阪では、閉鎖を強行しようとする府県側と同胞たちが激しく衝突する事態となった。「学校閉鎖令を撤回せよと要求する私たちに、警官は『イワシが魚か、朝鮮人が人間か』と言いながら、日本刀を手に襲いかかった」(東神消費組合配給係だった崔昌右さん、81)。
4月24日、兵庫県庁前に押し寄せた同胞たちの抗議行動に屈した県知事は閉鎖令撤回を約束したが、その数時間後、GHQは非常事態宣言を発布。武装した米兵と日本の警察は朝鮮学校、朝鮮人部落など至るところで同胞を無差別に検挙した。また26日、大阪の大手前公園で開かれた集会では当時16歳の金太一君が警官の撃った銃弾の犠牲になった。
このたたかいは5月5日、日本政府が朝鮮人側と、朝鮮人教育の自主性を認める覚書を交わすことでいったん収拾するが、この間、拘束された同胞は3000余人に上る。兵庫でのたたかいが4月24日だったことから、総称して4・24教育闘争と呼ばれた。
受け継ぎたい思い
その後、GHQと日本政府は49年9月に朝聯を強制解散させ、10月には学校閉鎖令を発布。東京、神奈川をはじめ各地の同胞たちは激しく抵抗するが、自主的な民族教育は瀕死の状態に追い込まれる。しかし、同胞たちは学校を守り続け、55年5月の総聯結成を弾みに75年までにすべての朝鮮学校の学校法人認可を獲得する。
崔昌右さんは「私たちにとって学校は自分の命と同じだった」と言う。48年当時、西神戸朝聯初等学院垂水分校の講師だった金善伊さん(80)は「自分の言葉を学ぶ権利を奪おうとする弾圧に抵抗しなければすべての権利を奪われる、再び日帝時代の境遇に追い込まれる、という危機感が募った」と、抗議に立ち上がった当時の思いを語る。
若い世代が受け継ぐべき「4・24精神」とは、こうした一人一人の思いにほかならない。それは、日本各地で朝鮮学校を作り、守り、育んできたすべての同胞の胸の中にある。(慧)
◎主な運動と成果
「外国人学校法案」を撤廃
65年6月の「韓日条約」締結以来、朝鮮学校を各種学校としてさえ認可すべきでないとする文部次官通達が各都道府県知事宛てに出されるなど、在日同胞の自主的な民族教育に対する日本政府の弾圧はいっそう露骨になった。
「外国人学校法案」は、従来知事の権限であった認可権と監督権を文部大臣が掌握し、各級在日朝鮮人学校の教育内容に思いのまま干渉し、是正・中止・閉鎖命令をいつでも出せることなどを定めたものだった。
日本政府は66年から68年にわたって「外国人学校法案」を国会に3度提出したがその都度、内外の強い反対によって廃案に追い込まれた。
各地の在日同胞は政府に抗議。日本市民の反響も大きく、各野党と総評をはじめ数多くの社会団体および著名な学者、教育者、文化人らが署名集めや政府への抗議を行った。また東京都、大阪府をはじめ130を超える地方自治体議会が決議を採択し、政府に対し「法案」立法化意図の即時放棄を要求した。
日本政府はこうした強い反対にも関わらず69年から70年にかけて、学校教育法一部改正を経て「法案」の成立を図るう回戦術を取った。しかし、この「一部改正案」も内外の強い非難を浴びるや、さらに「修正案」を持ち出した。
これは現各種学校を行政指導によって「専修学校」とし「各種学校規定」をなくすことによって、外国人学校、とくに圧倒的多数を占める朝鮮学校を「野放し状態」に追い込み、それを「取り締まる」必要性を説いて「外国人学校法」成立に持ち込もうとするものだった。しかしこれも同胞と日本社会党(現社会民主党)をはじめ野党の一致した反対に合い廃案。72年にも同じく「外国人学校法案」成立を目指したが反対世論に潰され、計7回の廃案に追い込まれた。
朝鮮大学校の認可獲得
在日同胞は日本に在住する外国人として日本の内政に干渉することなく、日本の法律を守り、慣習を尊重するとの立場から、日本政府に対し、朝鮮学校の法的認可を求めた。66年までには145の各級朝鮮学校のうち、119校が各種学校として認可された。
56年に創設された朝鮮大学校も長年の要請が実り、66年4月、東京都に認可申請が受理されたが、すぐに認可されたわけではなかった。
「韓日条約」締結後、日本政府は「外国人学校法案」を国会に提出するなど、在日朝鮮人の民族教育を弾圧しようと執拗に策動した。これにともない、「法案」立法化まで認可決定を下してはならないとする文部次官通達によって、朝大の認可は遅延された。 この間、在日同胞は都知事に認可を要請する一方で、行政当局に対し、「法案」撤廃を求める抗議運動を積極的に繰り広げた。自主的な民族教育を守るたたかいは、広範な日本の学者、教育者、文化人と数多くの社会団体の支持を受け、運動の輪は大きく広がった。
申請を受けた美濃部都知事は、公正な世論の強い要望と正当な法的権限に基づき、朝鮮大学校の各種学校としての法的適格性を確認して、この問題を都私立学校審議会に諮問した。しかしやっと審議会の答申が出されたのは7ヵ月後。しかも「校名が大学とまぎらわしい」「民族教育の内容が分からない」などと認可反対を全面に押し出したもので、内外から大きな反発を呼んだ。
しかし美濃部都知事は「政治的見解によって判断することは避け、憲法と法令と慣行による行政ベースで判断した」として、答申を受けた2週間後の68年4月17日、正式に朝鮮大学校を各種学校として認可すると発表した。
朝鮮学校の全国大会参加認定
朝高の高体連加盟問題がクローズアップされたのは90年。大阪朝高の女子バレーボール部が、大阪府高体連主催の春季大会の1次予選まで勝ち進みながらも、途中で出場を拒否されたことがきっかけとなった。朝高は学校教育法が規定する「学校」ではないというのが、高体連側の拒否理由だった。
これを機にすべての朝高では、6月までに各都道府県の高体連に加盟を要請。しかし全国高体連は11月の理事会で、改めて「参加拒否」の決定を下した。
これで世論はさらに高まり、朝高の高体連加盟を求める運動が活発化した。朝鮮高級学校校長会は、全国高体連事務局を訪れ「高体連加盟問題に関する申し入れ書」を提出。朝高生らが自ら立ち上がった署名運動には、各地の日本学校の生徒が協力を申し出、日教組は独自に20万人署名運動を繰り広げた。92年には日弁連がこの問題を「重大な人権侵害」と認め、改善を求める勧告を文部省に、同趣旨の要望を全国高体連にそれぞれ提出した。
こうした内外の世論に押され、一定の改善措置を取らざるを得なくなった高体連は91年11月、朝鮮学校を含む各種学校や専修学校に対し、インターハイ参加を認める方針を決めた。
中体連でも3年遅れて、97年度から朝鮮学校など外国人学校の全国大会の参加を認めた。高・中体連ともに加盟は認めていないが、92年には広島県高体連が独自に広島朝高の「準加盟」を認めるなど、道筋は付けられてきた。
JR通学定期券差別を是正
94年4月、国鉄時代から続いてきた朝鮮学校児童・生徒らに対するJR通学定期券割引率差別が26年ぶりに是正された。
JRの通学定期運賃は大学生、専門学校生を含む大人を100とした場合、高校生はその10%、中学生は20%、小学生は65%の割引となる。しかし行政当局は、朝鮮学校は「学校教育法第1条で定める学校ではない」との理由から、12歳以上を大人扱いで割引ゼロ、それ未満は50%引きとした。
定期券割引率差別是正運動は87年の国鉄分割民営化後、千葉初中オモニ会がJR新検見川駅長に差別是正を要請したのに端を発し、各地に波及した。
女性同盟と学校オモニ会を中心に、各地の在日同胞、朝鮮学校の生徒らはこの問題を「朝鮮学校に通う生徒に対する明らかな差別」とし、是正を求める署名運動を展開、署名総数は60万人を超えた。大阪は13万人分、東京は11万人分を集め、京都、福岡、愛知でも民族教育の処遇改善問題とからめた署名を集めた。各JRの本社と支社への要請も連日行われた。
こうした地道な活動の結果、世論は大きく盛り上がり、問題浮上から7年目にして、やっとJR側は要請を受け入れた。
オモニらが発起し、引っ張ってきた権利擁護運動が実を結んだのはこれが初めての例だ。朝高のインターハイ参加認定とともに、教育助成の拡充など、各地での処遇改善を求める世論を高める引き金にもなった。
◎運動の現状
世論に訴え成果積み上げ/市民や自治体に広がる理解と支持
在日同胞は近年、@朝鮮高級学校卒業生の国立大学受験資格 A朝鮮学校への私学並の教育補助 B朝鮮学校に対する寄付金の損金扱い――の3つの要求を中心に据え、朝鮮学校の処遇改善運動を行ってきた。昨年には日本各地で合わせて135万を超える署名を集め、大学や自治体、文部省に提出した。
文部省は、頑迷なまでにこれらの要求を拒んでいるが、いくつかの局面では、世論が文部省の圧力を押し切っている。
1995年、いったんは朝高生の受験を認める方針を示していた川崎市立看護短大が、「各種学校」たる朝鮮学校には受験資格を認めてはならないとする文部省の圧力を受け、態度をひるがえしたことがあった。
世論の強い反発を受けた同短大は翌年、文部省の意向に逆らうかたちで、改めて朝高生の受験資格を認める決定を下した。その際、同短大の設立母体である川崎市と、横浜市、神奈川県の首長は連名で、朝高生に受験資格を認めるよう求める要望書を文部省などに提出している。
95年の阪神・淡路大震災の際には、朝鮮学校と父母たちから強い申し入れを受けた兵庫県の再三にわたる要請を受け、日本政府は被災した朝鮮学校に対し、本来なら「各種学校」は対象外の激甚災害法を特例ながら適用。私立学校と同様に現状復帰にかかる費用の半額を国庫補助し、寄付金の損金扱いを期限つきで認めた。
日本弁護士連合会は2月、資格・助成面で日本学校と朝鮮学校との間に著しく差異を設け、在日朝鮮人が自己の民族文化を継承することを阻むことは憲法や国際条約に照らして「重大な人権侵害」であるとして、現状の全面的な是正を政府に勧告した。
日本の法曹界の一角が、朝鮮学校差別は日本社会にあってはならないものだということを真正面から指摘したのだ。
在日同胞は60〜70年代の学校法人認可取りつけに始まり、都道府県や市区町村からの教育助成獲得、JR定期券割引率差別の解消、インターハイ参加などを実現させてきた。これらはいずれも、在日同胞が自主的な民族教育の正当性と差別の不当性を説いて世論の支持を引き寄せ、その力を以て得た成果だ。
こうした成果が積み上げられた分だけ、民族教育への理解と支持が日本社会に広がり、逆に日本政府の差別政策が通用する領域は狭まってきている。民族教育を支持する世論の流れはもはや、不可逆的になった。
半世紀前から続く差別制度を根底からなくすには、この流れにのり、今こそ日本政府に、抜本的な態度の変化を迫る必要がある。(賢)