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共和国経済を読み解く/慈江道から全国へ(4)


降仙の精神を江界が継承/重工業部門から革新の炎を

50年代の千里馬大高揚

 「慈江道内の活動家と党員、勤労者はこんにちのような厳しい時にも党をどのように支えるべきかということを、実践的模範で示している。だから私は金日成主席が解放直後と戦後復旧建設の厳しい時期に降仙を訪れ、革命的大高揚を呼び起こすよう全国の先頭に立たせたように、強行軍を行うこんにち、江界市を先頭に立たせようと思っている」

 1月の慈江道現地指導で金正日総書記はこう語った。1950年代、降仙製鋼所から始まった千里馬運動を機に共和国で大高揚が起きたように、自力で多数の中小型発電所を建設した慈江道の江界精神を支柱に、こんにちの新たな大高揚を起こそうとの意図が込められている。

 50年代の大高揚はどう起こったのか。共和国では70年に社会主義工業化を実現したが、その基礎は朝鮮戦争(53年7月停戦)後の戦後復旧3ヵ年計画を経て、5ヵ年計画(57〜60年)で築かれた。計画遂行で緊要だったのは鋼材である。鋼材は鉄道運輸ではレールや機関車に、船舶工業では造船に使われるなど人民経済各部門で必要な資材だ。

 主席は56年12月の党中央委総会で、5ヵ年計画の初年に鋼材をより多く生産するよう強調した後、降仙製鋼所を訪れた。降仙の労働者は「鋼材を1万トンだけでもより多く生産できれば国がひと息つける」と述べた主席の期待に応え、既存の設備では年間6万トンしか生産できないところを最終的には12万トンも生産した。増産の要因は、困難を極めていた時期にも労働者が主席の信頼に応え、自力更生の精神で課題を貫徹したところにある。これが「降仙の精神」である。

 主席は45年8月15日の解放直後にも同製鋼所を訪れたが、労働者は「鋼鉄で国の柱を立てる」と工場を復旧、朝鮮戦争時にも生産を保証した。停戦直後に主席が同所を訪れた時にも労働者は、わずか40日で生産を開始した。主席は5ヵ年計画を遂行するうえで必要不可欠な鋼鉄を増産するために、課題を必ず貫徹している降仙を再び訪れたのだ。

 主席が降仙の労働者の胸にともした火は「降仙の精神」として全国に燃え上がり、1日に千里を駆けたという伝説の千里馬の意気込みに例えられ、千里馬作業班運動として経済各部門で一般化された。その結果、57年の工業生産は前年に比べて44%も増大し、60年末までには社会主義工業国を実現させるための自立的民族経済の土台が築かれた。

 

鋼材生産正常化へ

 50年代は鋼材の増産が緊要だったが、こんにち工場をフル稼働させ生産を正常化させるためには電力問題を解決しなければならない。慈江道がその模範を示した。慈江道には国内でも大きな発電所が建設されている。主席は58年8月の演説で、慈江道の工業部門の重要課題は「発電所の建設テンポを早めることである」と指摘している。ちなみに道内には現在、長者江(8万キロワット)、江界青年(約22万キロワット)などの大規模水力発電所がある。

 こうした発電所建設の経験がある慈江道では、97年の共同社説で提起された電力問題を解決するために、潜在力を生かして多数の中小型発電所を建設した。その過程で50年代の降仙の精神を継承した「江界精神」が生まれたのだ。

 50年代に降仙の精神で千里馬大高揚を呼び起こしたならば、こんにちの江界精神には経済建設で転換的局面を切り開こうとする意図が込められている。労働新聞3月16日付は、強行軍で最後の勝利を達成するためには「重工業部門から革新の炎をともさなければならない」と指摘した。

 3月14日発朝鮮中央通信によると、総書記は咸鏡北道城津製鋼所を現地指導し、鋼材生産を正常化させるための課題を示した。共和国では年初から、重工業の土台をしっかりと固めることを強調してきた。城津製鋼所への現地指導は、新たな大高揚を起こす発端となろう。経済が再構築されれば、強行軍の勝利が達成され人民経済全般をもり立てることになる。それによって「苦難の行軍」の最終勝利=朝鮮式社会主義を確固と守り抜くことになる。(基)=おわり