時事・解説//国家保安法撤廃、安企部解体 なぜ必要か
南北関係発展の最大の障害
共和国政党・団体連合会議でも提起されたように、共和国は南朝鮮当局に対し、反北対決政策から連北和解政策への転換、中でも「国家保安法」撤廃と「国家安全企画部」解体を一貫して求めている。とくに保安法は、南北関係発展の最大の障害物である。 (根)
●反統一性と反民主性
保安法――和解妨げる悪法
安企部――謀略の情報機関
「国家保安法」は、李承晩「政権」が1948年12月、民主化と統一を求める民衆の動きを封じるため、日本帝国主義の悪法、治安維持法をまねて作ったものだ。
60年の4・19人民蜂起により同「政権」は倒れたが、次の朴正煕「政権」は保安法の上を行く反共法を制定した。全斗煥「政権」は「反共法を持つ唯一の国」という非難から脱しようと反共法を撤廃したが、そのファッショ性は保安法にそっくり吸収された。以来、保安法は80、87、91、94年と4回にわたり改悪され、歴代独裁政権を支える悪法として、訪北人士や民主化・統一運動の弾圧に利用されてきた。全25条からなり、最高刑は死刑。
保安法は共和国を敵と見なし、南北和解を妨げる反統一法の性格を持つ。共和国は「反国家団体」、共和国人民は「反国家団体構成員」であり、共和国を支持し連北和解を主張する行為は「利敵行為」、それを行う団体は「利敵団体」とされる。「反国家団体」は「国内外の結社または集団としての指揮統率体制を持つ団体」と定義されており、共和国の海外公民団体である総聯も「反国家団体」となる。
この保安法を「武器」に、日本の公安と連携し、共和国を陥れる数々の反共和国、反総聯謀略をでっち上げたのが「国家安全企画部」だ。
安企部は「大統領」直属の謀略情報機関である。前身は朴正煕が61年6月に創設した中央情報部(KCIA)で、初代部長は金鍾泌(現・総理代理、自民連名誉総裁)。陰謀と政治工作の拠点として民主化運動を弾圧してきた。
KCIAは81年1月に安企部に改名され、安企部法も制定された。同法は金泳三「政権」下の94年1月に改正され、権限が縮小されたが、96年12月に与党「新韓国党」(当時)が改悪案を抜き打ち採択し、権限が復活した。同法の第3条「職務」では、情報収集内容の一つである「国内保安情報」の中で「対共(情報)」と明記している。
●民族団結を阻害
訪北・民主人士を逮捕、投獄
「文民」時代に良心囚4倍に
南朝鮮当局は、同族である共和国を敵と見なす保安法のファッショ的性格そのままに、自主的平和統一を訴える民主人士を弾圧してきた。とくに、訪北した文益煥牧師を89年6月、林秀卿さんと文奎鉉神父を同年8月に逮捕、投獄した事実は、その反統一性を改めて浮き彫りにした。
文牧師は獄中、自身の訪北は「統一という民族最大の課題を解決するため自ら犠牲となった若者たちの意志を達成するため」だと、動機を語った。民族団結を願う純粋な思いから北を訪れ、金日成主席と会見した。当局はこれを、「国家の安全を脅かす行為」であり、文牧師は「北の指令を受けた」と断定し、保安法違反容疑で逮捕した。95年7月には、主席の1周忌に際して弔問のため訪北し、板門店経由で南に戻った文牧師の夫人、朴容吉女史を、保安法違反容疑で逮捕した。
89年7月に平壌で開かれた第13回世界青年学生祭典。林さんは全国大学生代表者協議会(全大協)代表として参加した。ごく普通の女子大生だった林さんを動かしたのは「反共を国是とする『政権』に統一問題を任せてはおけない」との思いだった。当局はこの行動を「北の対南謀略宣伝活動を讃揚、これに同調した」と決め付け、同行した文神父とともに逮捕した。
キューバで97年7月に開かれた第14回世界青年学生祭典には「韓国大学総学生会連合」(「韓総連」)代表として西江大4年の趙応珠さんが参加したが、11月に逮捕され、懲役2年の実刑判決が下された。
「北のスパイ」とでっち上げられ、獄中で17年間たたかい続けた徐俊植さんは97年11月、済州島4・3蜂起をテーマにしたドキュメンタリー映画を上映したところ、これが保安法上の「利敵表現物」に当たるとされ再逮捕、今年2月に保釈された。金泳三「政権」の5年間に捕らえられた南朝鮮の良心囚は約4200人で、それまでのおよそ4倍に急増した。今も獄中でたたかい続けている。
保安法を適用した学生弾圧も激しさを増している。96年8月の第7回汎民族大会と祖国統一汎民族青年学生連合(汎青学連)第6回統一大祭典を「不法」とし、2万4000人の機動隊を動員して学生を無差別連行。97年5月には「韓総連」の第5期出帆式を「不法」と決め付け弾圧し、「韓総連」に所属する学生に脱退を強要した。多くの学生がこれに反発すると、勧告に応じない学生を無差別逮捕する暴挙に出た。
全良心囚の即時釈放を訴え続けている南朝鮮の市民団体、民主化実践家族運動協議会(民家協)は、1日も早く保安法が撤廃されるべきだと指摘している。
●謀略の温床
「北のスパイ」をでっち上げ
歴代の独裁政権延命に悪用
南朝鮮の対北謀略の影には常に安企部の暗躍があった。「大統領」選挙の時や「政権」崩壊の危機に陥った時、安企部作の「事件」が起こり、独裁政権の延命や共和国のイメージ失墜に利用されてきた。そのいくつかを見る。
徐勝・俊植兄弟事件 71年4月18日、京都市出身の在日同胞、徐勝・俊植兄弟が南朝鮮の大学に留学中、「学園浸透スパイ団事件」の首謀者にでっち上げられ、保安法違反容疑で逮捕、投獄された。金大中と朴正煕による「大統領」選挙の10日前だった。2人は拷問に屈せず非転向を貫き通したが、勝氏の釈放まで19年、俊植氏は17年もの歳月がかかった。このほかにも多くの在日同胞が安企部により「北のスパイ」にでっち上げられた。
金大中拉致事件 「大統領」選挙で朴正煕に敗れた金大中が73年8月8日、東京都内のホテルから白昼拉致され、ソウルまで連行される事件が起こった。中央情報部(KCIA、現・安企部)の犯行であることは当初から指摘されたが、KCIAの組織的犯行を裏付ける内部の極秘資料を東亜日報が入手し、今年2月18日付で発表したことで、謀略工作が改めて立証された。ホテルの部屋には「北朝鮮製のタバコ」が落ちていた。「北の犯行」に見せかける偽装工作だった。
KAL機事件 87年11月29日、アブダビ発バンコク行きの大韓航空機がアンダマン海上空で消息を絶った。安企部は同機は爆破されたと発表したが、機体の残骸や乗客の遺体は発見されないまま、12月15日に「爆破犯」として「真由美」がソウルに移送された。「大統領」選挙の前日で、移送報道は盧泰愚の勝利に大きく貢献した。
反総聯瓦解工作 安企部はこのほかにも、日本で一部の変節者を使って幽霊団体を作り、共和国と総聯、在日朝鮮人の民族教育をひぼう中傷する怪文書を在日同胞の間にばらまくなど、稚拙で卑劣な手法で反総聯謀略を引き起こしている。