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特集//在朝日本人女性第2陣故郷訪問団


 1月27日から日本を訪問していた在朝日本人女性故郷訪問団の第2陣(12人)が全日程を終え、2月2日に成田を出発した。第1陣に比べマスコミの混乱ぶりも多少だが静まった。それぞれは、30数年ぶりの故郷訪問で墓参りをして心のわだかまりを解くなど、親類、友人、知人との面会を通してたくさんの思い出を作ることができた。

 

●キム・チョンスクさん(60)●

解けた肉親の誤解/国に愛され心の豊かさ育む

 江原道元山市に住むキム・チョンスクさん(豊野清子、60)は今回、37年ぶりに日本を訪問した。

 東京都葛飾区の生まれ。高校卒業後、同区西新小岩のメッキ工場に事務員として就職し、メッキ加工の仕事をしていた6歳年上の金武久さんと知り合った。キムさんが22歳の時に結婚し、翌年の1961年8月、第72次の帰国船で夫と共和国に渡った。

 共和国では朝鮮労働党に入党し、金日成同志革命思想研究室の管理員を昨年まで30年近く務めた。「党と国家が私たちを共和国公民として全面的に信頼してくれている証し」とキムさんは語る。6000人が参加した93年の全国共産主義美風先駆者大会では在朝日本人女性として初めて討論。金日成主席、
金正日総書記と記念写真も撮った。

 「金正日総書記は、かつて朝鮮人民に多くの不幸を与えた日本人の1人である私を心から信じてくれた。党の配慮のもと、共和国で心の豊かさを育めたのが何よりうれしかったのです」

 

「共和国でクラス会を」

 今回、キムさんの受け入れ先となったのは、中学時代の恩師である大川奎一さん(75)。訪問に際し、姉、弟、妹との面会を希望したが返答がなかったためだ。

 しかし、到着翌日の1月28日、宿舎である東京・代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターに、大川さんより先に面会に訪れたのは、その姉夫婦だった。姉に「都合があって来れない」と言われていた弟、妹夫婦とも出発前日の1日に面会でき、日本にいる肉親みなと再会を果たした。「心に秘めていた誤解やわだかまりが解け、互いに理解し合えた。最後の望みがやっと叶いました」。

 キムさんは翌29日、都内にある両親の墓を姉と訪れ、墓前で「両親の反対を押し切って家を出た親不孝を詫びた」。30日には同窓生らと母校や浅草を回り、大川さん宅に泊まって夜通し語り合った。

 31日のクラス会には大川さんと同窓生16人が45年ぶりに集まった。「童心に返って、思い付く話はすべて話した」キムさんは、「次のクラス会は共和国でやろう」と言い、満面に笑みを浮かべた。

 勤めた工場の故社長夫人、李江蓮さん(70)宅も訪れた。家庭料理でもてなされ、刺身や里芋の煮付けなど懐かしい味に舌鼓を打った。テレビのニュースでキムさんの姿が映ると、照れくさそうにはにかんだ。

 

マスコミに強い不信感

 今回の訪問で、キムさんは日本のマスコミの同行取材を一切断った。日本の肉親に配慮してのことだ。また、日本のマスコミへの強い不信感もあった。

 「北は怖い国」「北に親族がいるのは後ろめたいこと」など、事実を曲げてあることないことを書き連ねる姿勢に、キムさんは怒りを隠さない。「日本のマスコミは共和国への差別や偏見をなくし、朝・日国交正常化の早期実現と、在朝日本人女性の自由往来の環境作りに協力すべきです。その意味で今回の訪問は良い橋渡しとなったはずです」  「人間は国に愛されるのが一番。あなたが共和国に愛され、幸せに暮らしているのなら、それでいいじゃない」という同窓生の言葉を思い出し、キムさんは思わず顔をほころばせた。(根)

 

 

●ホ・オクソさん(69)●

親類、友人ら100人が歓迎/「今度は平壌で」「必ず行くから」

 

下町の人情に触れ

 ホ・オクソさん(村上タマオ、平壌市在住、69)に会うため1月30日、東京・文京区内のホテルには午後から親類、友人、知人のほか当時、東京朝鮮中高級学校に通っていたホさんの2人の息子の同級生ら合わせて100人ほどが駆け付けた。

 ホさんは疲れた様子も見せず1人1人とあいさつを交わしながら、思い出話に花を咲かせていた。

 東京・台東区に在住していたホさんが一家で帰国したのは1981年。日本人女性故郷訪問団のメンバーの中には、30数年ぶりの帰郷という人がほとんどだが、ホさんのように80年代に帰国した人は希だ。

 東京・台東区上野界隈を久し振りに訪れたホさんは、「たくさんの面会人、道行く人まで親切にしてくれ、最初はビルの谷間を見ながら心配にもなったが、下町の人情はちゃんと生きてるんだなと実感して嬉しかった」と、懐かしんでいた。

 「とてもきっぷのいい人でね、私たちは日本人、朝鮮人とか意識したことはなかった。祖国を訪問した時、何度か平壌で会っているけど、日本で会うのは国交正常化の前触れのようで、違う嬉しさがある」と当時、近所に住んでいたという黄春化さん(文京区千石在住、70)は、ホさんとの再会の喜びを噛みしめていた。

 次男の同級生の1人、全淑児さん(台東区上野在住、34)は、「オモニが日本人だということで特別に思ったことはなかった。日本に来て騒がれているのを見て、多少戸惑いもあるけど、やっとこういうことが始まったのか、という感じだ」と感想を語った。

 

「帰国は自然」

 「小さい頃からぼくは、タマちゃん、タマちゃんと呼んでいた」

 今回、ホさんの受け入れを担った甥で盛岡在住の矢幅勇夫さんは、再会の喜びを隠し切れずにこう言った。

 ホさんが帰国する5年ほど前、もし夫が祖国に帰ると言ったら迷わずついて行く、と矢幅さんにポツリと言った、という。

 5年後、帰国は現実のものとなった。「私は、止める気なんて全然なかった。だって、在日朝鮮人が祖国へ帰りたいと思うのは当然だし、タマちゃんがそれについていくというのも自然でしょ。日本人の中には『恥』などという人もいるけど、私には考えられないことだ」。矢幅さんはきっぱりと言った。

 そんな矢幅さんに今回帰郷したホさんが、開口一番に言ったのは、「こんなに嬉しいことは自分1人でなく、家族全員で経験したかった」という言葉だった。

 「早く親戚も自由に行き来できる日がくればいい。そのためにも国交がないと。タマちゃんは共和国での生活を心配する私に、今度是非、平壌においでと胸を張って言った」と矢幅さんは言う。

 ホさんに帰国を決意させた最大の理由は、息子2人の進路問題だった。だが、それぞれ立派に成人し、今では長男は映画技師の道へ、次男は国家体育委員会に所属している。ホさんの「平壌で会いましょう」の言葉に、成人した息子らを矢幅さんに見せたいという思いが伝わったのか、矢幅さんは「必ずいくから」と笑みを浮かべながらうなずいていた。(嶺)

 

 

●ラ・オクヒさん(67)●

晴れ晴れとした気分/共和国との距離縮めた

 

水入らずの再会

 しんしんと降りしきる雪の中、1月29日、福島県福島市内の寺にある父親の墓に着いたラ・オクヒさん(田キリ子、平壌市在住、67)は、涙ぐみながら「帰ってきました」と深々と墓前にお辞儀をした。1961年12月に帰国して以来37年ぶりだ。

 亡くなる前、自分の結婚を認めてくれた父の墓に感謝の気持ちを込めてお参りすることが、最後の望みと語っていたラさんは、「父親には、37年ぶりに帰ってきました。私はこのように共和国で健康に暮らしていますと報告しました。今、お墓参りを終えて、本当に晴れ晴れとした気分です」と、願いを叶えた嬉しさを語っていた。

 墓前には持ってきた果物や花、それに朝鮮人参酒を捧げ、朝鮮式のお辞儀をして供養をした。

 また福島滞在中、2人の兄とも再会し。2人とも37年ぶりに会った妹を温かく歓迎し、わだかまりも解け、兄妹水入らずの再会を喜んだ。

 

50年ぶりに同窓生と

 30日、50年ぶりの再会を楽しみにしている女学校時代の同窓生たちは、ラさんの到着予定時間よりも早く母校に集まった。

 ラさんは1946年、54人から成る4年5組の同級生とともに県立会津高等女学校を卒業した。明るい性格で、考え方がはっきりした人だったと、集まった同窓生は言う。

 同窓生が、ラさんの消息を知り始めたのが6年前、日本のマスコミにラさんの名前が報道されてからと言う。「最初は彼女に連絡を取ることが不安で、彼女にもほかの人にも迷惑をかけるのではないかと思っていました」と、同窓生の1人は語る。

 そういう誤解も日本のマスコミの共和国に対する偏見に満ちた報道によるところが多かった。

 だが、ラさんが共和国に行った後、現地で日本語を使う仕事に携わったり、表彰を受けるなどのニュースを知り、立派に暮らしていることを知った。ラさん自身、「女学校時代の同窓生に会ったら、私の共和国での生活を話してあげたい」と楽しみにしていた。

 「キリちゃん(ラさんの愛称)は情熱家、芯の強い人であり、クラスで討論会などをする時は自分の主張をはっきり持っていた。当時は大変な時期だったけど、向こうに行ってもしっかりやれると、彼女を見て思いました。これからもきっとそうでしょう」と話すのは、同じクラスで仲良しだった穴澤玲子さんだ。

 結局、同窓会はラさんが急な高熱と風邪で入院したため中止。集まった16人の同窓生のうち数人で見舞金と寄せ書き、花束を持って、翌日、東京に向かうラさんを福島駅で見送った。 「今度は私たちがキリちゃんに会いに行こう」と、囲んだ同窓生らは口々に語った。

 今回のラさんの故郷訪問が、身近でなかった共和国との距離を一気に縮めるきっかけになり、「1日も早い朝・日国交正常化を」との思いを強くした。(承)

 

 

切実な朝・日国交正常化/人道問題として3陣以降も

 「お帰りなさい」。会見の冒頭、この言葉を聞くと1月27日、成田到着直後、少し緊張した表情だった一行の顔が和らいだ。

 記者から日本到着の感想を聞かれたクォン・ホヨンさん(福間浩子、平壌市在住、59)は、「実現できて嬉しい。心の中で37年間したくてもできなかったことを1週間でやるのは大変だ」と、語った。

 ほとんどが30数年ぶりに故郷に足を踏み入れ、「帰国を反対された。日本の家族は心配しているが、私を一目見ればきっと安心するだろう。共和国では日本人への差別はない。日本では、在日朝鮮人への差別、在日朝鮮人と結婚した日本人への差別など、今もあると聞いている。私たちは生きがいを持って、堂々と生きている。家族の誤解を解きたい」(チェ・リョンスンさん=山中鈴子、64歳)など色々な思いが交差していた。

 第1陣に比べ報道陣は半分に減ったものの、静かに墓参し、親類、友人らと面会するようになるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 今回、会見でも目立ったのは「マスコミは私たちのことを決してわい曲しないでください」などの、マスコミへの注文だ。

 当時、生活が貧しかったり、日本社会の差別に耐え切れなかったり、帰国を反対され肉親に黙って帰国したなど様々な事情で今日に至っている在朝日本人女性にとって、30数年経って初めて実った故郷訪問は、肉親や知人と直接会って自分の心情を語る最後の機会とも言える。

 だからこそ、この問題は共和国側が当初から言うように政治とは別の人道問題として扱うべきであり、朝・日赤十字関係者もそうした理解のもとで尽力してきた。

 代表記者会見では政治問題と結び付けようとする一部の記者の場違いな質問もあった。

 制度の違いこそあれ、幸せに暮らしているという言葉をことさら政治的に解釈し、それを「不自然」ととらえる一部の傾向には逆にうんざりさせられた。

 そうした質問をよそに、彼女たちのほとんどは、「早くから未亡人になったが、子供たちも結婚して孫が7人いて幸せだ。子供を見せたい」(コ・ミヒャンさん=大高美都子、60歳、黄海北道在住)。「生活はそれほど豊かではないだろうが、先の不安はない。日本にいる間、大蔵省の不正問題などが新聞に載っていて日本の先行きが心配だ。今後のためにも日本の安定を望む」(ホ・オクソさん=村上タマオ)など、むしろ共和国での精神的な充実感を語っていた。

 その中で何度も聞いたのが、日朝国交正常化を願う言葉だ。両国にまたがっている自分たちの存在を実感しているからこそ心から望む国交の実現だ。

 帰りの会見でパク・ミョンオク団長(朝鮮赤十字会中央委員会同胞事業部副部長)が「3次以降も継続し、最後まで人道問題の原則で行われるようお互いに努力していきましょう」と語ったように、今後も故郷訪問が順調に進み、友好ムードを高めていくことが、国交正常化にもつながるであろうことを実感させた。(嶺)