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東京朝鮮吹奏楽団第1回定期演奏会


 東京朝高吹奏楽部OB会(1期〜48期)の若い世代を中心とした東京朝鮮吹奏楽団の第1回定期演奏会が10月31日、東京・荒川区のサンパール荒川で開かれ、300余人の同胞と朝鮮学校生徒らが観賞した。各地の朝鮮学校で吹奏楽部の部員数が減少傾向にある中、「演奏会を通じて朝鮮音楽の素晴らしさ、演奏の楽しさと魅力を伝える」(李広守・東京朝鮮吹奏楽団団長、24)ことで、各級学校で吹奏楽部を活性化させる契機にしようと開かれた。(琴)

 

楽しさと魅力を生き生きと

 演奏会ではオープニングの「前進、前進」をはじめ「勝利の舞曲」、「龍江(リョンガン)キナリ」、「戦火の中で」など朝鮮の曲とともに、チャイコフスキー作曲の「眠れる森の美女」や「スラブ行進曲」などクラシックの名曲も披露された。

 とくにフィナーレの「豊年の青山里(チョンサンリ)」では、黄金色に波うつ広大な青山里の農場光景と豊作の喜びにわく農民たちの姿を音楽で見事に表現し、観客に大きな感銘を与えた。

 4月に埼玉初中から東京第7中級に編入したという林志聖君(中2)は「埼玉初中では吹奏楽部に入っていたので、東京第7に吹奏楽部がないのを残念に思っていた。運動会の伴奏がカセットテープなのは本当に味気ない。今日の演奏会を見て、演奏をしたい気持ちがふつふつと沸いてきた。自分1人からでも吹奏楽部を作りたい」と語った。

 東京第1初中吹奏楽部主将の朴梨瑛さん(中3)は「自分たちもあんな風に楽しく演奏できたら」と感想を話していた。

 今年東京朝高を卒業した同楽団の朴昌民さん(19)は、「僕らの時代は部員数が20人足らずで、大人数で演奏する楽しさを味わえなかった。40人規模の合奏は迫力があってとても楽しく演奏できた」と満足した様子だった。

 今回、アルトサックスを担当した金俊夫さん(52、東京朝鮮吹奏楽部OB会幹事長)は、「出演を頼まれた時、若い世代中心の東京吹奏楽団に出演するかどうか正直迷った。でも私のような中高年が演奏することで生徒らに少しでも刺激を与えられたらと思い、参加を決めた。吹奏楽は私にとって『青春』。今日の演奏会を通じ、かつて生徒たちの憧れの的だった吹奏楽の楽しさを伝えられたと思う」と話していた。

 

行事など通じて同胞にアピール

 東京朝鮮吹奏楽団は昨年5月に結成。経験は問わず、東京在住の演奏愛好家ら約40人で構成されている。その歴史は東京朝高吹奏楽部にまでさかのぼる。同校吹奏楽部は1946年の同校創立直後、全国に先駆けて創部された伝統あるクラブだ。第1次帰国船を新潟で歓送迎したり、祖国統一を訴えるデモ行進の音楽隊として活躍するなど、常に在日朝鮮人運動の歴史とともに歩んできた。

 また、全日本吹奏楽コンクール全国大会で銅賞を獲得した実績が認められ、88年には「中国演奏旅行」も実現した。

 高3当時、この演奏旅行に参加した東京朝鮮吹奏楽団の張祥俊さん(27)は「在中同胞のハルモニらのリクエストで民謡を演奏し、2時間あまりにわたって、歌ったり、オッケチュムを踊ったりした。僕らの演奏に夢中で聞き入るハルモニたちの姿に触れ、音楽の大切さを改めて感じた」と当時を振り返る。

 単なるクラブとしてだけでなく、同胞社会で芸術の持つ力は、何よりOB自身が実感している事だ。

 東京朝高吹奏楽部OB会は同校吹奏楽部の伸び悩みが指摘される中、96年11月、吹奏楽部の強化・発展を図るのを目的に結成された。その後、20代のメンバーを中心に皆で演奏を楽しむ場を設けようとの声が高まり、東京朝鮮吹奏楽団が発足した。

 同楽団は初舞台となった97年10月の総聯支部対抗文化芸術競演関東大会で金賞を獲得。その後も東京都青商会主催のコンサートに出演するなど活躍の場を広げてきた。都内の朝鮮学校の運動会や学芸会で伴奏・演奏を担当したこもある。だが演奏会は楽団初の取り組み。「みな仕事を持つ多忙な身だが、吹奏楽部の『弱体化』を食い止めるにはOBである私たちの力が必要」(申相夫さん、同楽団指揮者、29)との思いで企画。生徒は入場無料にしたのは、1人でも多くの人々に来て欲しかったからだ。

 演奏会に先立ち李団長は、「OBが団結して演奏会を成功させ、同胞社会での吹奏楽団の健在ぶりを示したい」と意気込みを語っていた。