在朝日本人女性故郷訪問団第2陣メンバーに聞く/訪日前に本社記者会見
【 平壌発=本社韓東賢】 今日から1週間の予定で、在朝日本人女性の故郷訪問団第2陣が日本を訪問する。
訪問団は在朝日本人女性12人と朝鮮赤十字会関係者。一行は27日に平壌の順安空港を出発し、北京経由で同日中に成田入りする予定だ。出発を4日後に控えた23日、ラ・オクヒさん(田キリ子、67、福島県出身、平壌市在住)とホ・オクソさん(村上タマオ、69、岩手県盛岡市出身、同)の2人に話を聞いた。
◎ラ・オクヒさん(67)
浦島太郎になった気持ち/2人の兄と再会果たしたい
61年冬、帰国船に
私は福島県の磐梯山の麓で生まれ育った。13歳の時に母を亡くし、きょうだいは戦死したり家を出ていたため、末娘の私は父と2人で寂しく暮らしていた。
夫と知り合ったのは、私が会津若松の高校生だった頃だ。夫は朝聯(在日本朝鮮人聯盟)の活動家だった。祖国と同胞のため熱心に働く姿にひかれた。私の両親は結婚に反対し、私を新潟の親類の下へ行かせたが、勝手に戻り、家族の了承を得ないまま結婚した。
夫が日雇いで土方をして生計を立てたが、その日暮らしで生活はとても苦しかった。その後、名古屋に移り住み、夫は総聯の支部宣伝部長として、私も女性同盟で活動した。子供はもちろん朝鮮学校に通わせた。この頃の夫の活動の日々を収めたアルバムが今も一番の宝物だ。
夫は祖国への帰国運動でも先頭に立った。1961年12月25日、30歳の時、私は夫と子供4人とともに帰国船に乗った。
共和国の建設に寄与
寒い時だったし、言葉も風習も未知の土地への不安はあった。ただ、夫の祖国の社会主義建設に寄与したいとの思いは強かった。
共和国に来て、不安は安堵に変わった。国では住む家を準備してくれていた。夫は映画撮影所に勤め、私は平壌外国語大学で日本語の教材を製作するタイピストとして働き始めた。働き口があることは何よりうれしかった。
名前は夫が付けてくれた。とても気に入っている。夫は昨年6月に亡くなったが、愛国心が強く、家でも子供たちに日本語を一切使わせなかった。その半面、日本人の私を陰ながら支えてくれた夫のありがたさを改めて実感している。
子供は息子3人と娘4人。長女が47歳で末娘が32歳、孫は12人だ。子供はみな結婚した。日本には家族や孫と写した写真、夫らと旅行に行った時のビデオテープを持って行く。何より、日本人なのに分け隔てなく受け入れてくれた共和国へのありがたい気持ちを伝えたい。
故郷の干し柿たのしみ
父は私が共和国に渡る前に亡くなったが、亡くなる前に結婚を認めてくれた。姉は亡くなったが、親代わりだった一番上の兄とは手紙のやり取りを続けてきた。日本に行ったら両親の墓参りをし、2人の兄に会いたい。兄には私が子供をみな大学まで卒業させ立派に育てたことを話したい。
92年に私の消息が日本の新聞紙上で紹介されたが、それを機に文通を続けている小学校時代の友人にも会う予定。日本語で話をしたいので、思い出しながら一生懸命練習している。
37年ぶりの日本は、懐かしい故郷というより、浦島太郎の玉手箱の話のような不思議な気持ち。元気なうちに故郷の土を踏めるのも、国の人道的な配慮のおかげだ。日本では、福島でこの季節によく食べた干し柿を食べたい。おばあちゃんの故郷の味だから、孫へのおみやげにもしたい。
◎ホ・オクソさん(69)
ぜひ両親の墓参りを/朝・日の早期改善望む
81年の遅い「帰国」
1981年、私が53歳の時に一家揃って帰国した。夫は東京都台東区で朝鮮料理店を経営し、副分会長や東京朝鮮第1初中級学校の理事も務めていた。
長男が東京朝鮮高級学校を卒業する歳になったのをきっかけに、帰国を考えるようになった。愛国心の強い夫は、2人の息子を祖国のために役立てたいと考え、次男が高級部を卒業する2年後の帰国を決断した。
私もいずれは夫とともに行くと決めていたので驚かなかった。名前も以前から、朝鮮名でムン・オクソと名乗っていたが、知人の勧めで姑の姓の「ホ」に変えた。
日本がすでに経済的発展を遂げていた81年に帰国する人は珍しく、出入国管理局に手続きに行った際、係の人に思いとどまるように言われた。私が「日本社会には今も朝鮮人への差別があり、子供の進学でも問題がある」と答えると、「親の言うことは信用できないので子供たちを連れて来なさい」と言われたのを、今でも覚えている。
心の拠り所求めて
私は岩手県盛岡市で、兄4人、姉1人の末っ子として生まれ育った。家庭は貧しく、とても苦労した。16歳の時に兄と両親が亡くなり、兄嫁や姉に助けられ、盛岡で女学校を卒業。製糸工場など職場を転々とした。
夫とは仙台で出会った。夫は親類の店を手伝いながら、社会主義への理想に燃え、総聯の前身である在日朝鮮人組織の活動に携わっていた。国籍が違うことで多少の抵抗はあったものの、自然と一緒になっていた。
上京後も生活は苦しく、一生懸命働いて家財道具を買い揃えた。夫の親戚の誘いで輸入雑貨の店を手掛けるようになり、最終的には焼肉店にたどり着いた。
日本に精神的な拠り所はなかった。結婚して初めて拠り所を得、さらに共和国で人間らしい真の生活を手に入れることができた。
現在、37歳の長男は軽工業科学院分院の新技術導入室で働いており、35歳の次男は国家体育委員会体育研究室で翻訳の仕事をしている。2人とも結婚し、子供も2人ずついる。74歳の夫も健在だ。
生活そのまま話す
日本には兄の子供たちと83の兄嫁、いとこたちがいる。年齢からしてこれが最後になるかもしれないので再会が楽しみ。両親の墓参りをし、女性同盟のオモニたちにも会いたい。
盛岡のいとこたちは朝鮮人の夫に深い理解を示してくれた。みな共和国での生活を心配しているようだが、今の生活をそのまま話し、幸せだから心配しないでと言いたい。もし日本のマスコミに意地悪なことを言われたら、言い返してやるくらいの気持ちでいる。
出発を前にうれしくてすっかり若返った気持ちだ。ただ、孫たちの将来を考えても、やはり早く朝・日の関係が良くなってほしい。