座談会―阪神・淡路大震災
総聯と同胞 被災地の3年(中)/4・24の伝統今も
学校、分会「自分の問題として」/支えは大衆の底力
1995年1月17日の阪神・淡路大震災発生から今日までの3年間、被災地での総聯運動では、朝鮮学校再建などで見られた同胞らの必死の努力が特徴的だった。その過程を振り返る。
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――被災朝鮮学校の再建が同胞社会復興のシンボルと言われるが
崔敏夫・総聯須磨垂水支部大池分会長(以下崔) 震災直後から、学校の早期再開は、総聯中央から被災者まで一致した考えだった。西神戸初中に避難していた被災者も、震災から17日後の2月3日には自主的に西神戸、須磨垂水両支部に避難所を移し、学校を再開させた。日本学校は数ヵ月かかっていた。
同胞らには民族教育は自分の財産で、自分で守るものだとの認識がある。
鄭光根・伊丹商工会会長(前伊丹初級新校舎建設委員長、以下鄭) 震災がなくとも、伊丹初級は老朽化し建て替えを考える時期ではあった。だが、大多数の同胞が、程度の差はあれ何らかの被害を受けていた。日本政府から特例補助が出るとは言え、はじめは修理で済まそうとの消極論が多かった。しかしいざ校舎が解体されて見ると、雰囲気は変わってきた。96年2月の建設委員会発足の頃には、これ以上遅らすな、家の修理を後回しにしても再建する、という声も出てきた。後は地域ぐるみで一気に行った感じだ。
趙富雄・兵庫同胞生活相談センター所長 東神戸、伊丹の2校の新築に、ほかの学校の補修を合わせると事業費は20億円になった。兵庫には48年の4・24教育闘争の歴史もある。民族教育が危機に瀕すると、何をおいても守ろうとする伝統があるのではないか。
――須磨垂水支部の大池、灘支部の住吉など被害の大きかった分会でも事務所が再建されているが
崔 大池分会は震災で事務所が焼けたが、同年5月には、西神戸支部松野分会と合同で再建した。
会員のほとんどが家を失いながらこうしたことが出来たのは、分会やケミカルシューズの仕事を通して互いにつながりを持ち、協力し合う地域生活に、在日同胞の生き方の原点を見い出しているからだろう。私たちの世代は、1世がそれらを無から築いてきた姿を見てきた。
だから分会を再建することは、地元に帰り自分の生活を建て直すことにも通じる。実際、焼け跡に仮設の家やケミカルシューズの工場を建て出したのは、日本人より同胞の方が早かった。
――一連の事業で得た教訓は何か
鄭 学校にしろ分会にしろ、同胞の底力が発揮されたと思う。
今回の校舎建設運動は、地域で若い世代が台頭するきっかけになった。
私は2世だが、年齢的には1世と若い2世の中間、言わば1世半と言える存在だ。今回の運動では、私たち1世半とより若い2世が中心で、3世も加わった。10年前の創立40周年記念事業では1世と1世半が中心だったから、私たちを軸に世代が1つ交代したことになる。
このように顔ぶれは変わっても、運動では億単位の資金集めを超過達成する大成功を収めた。また昨年11月の建設委解散後は、学校運営も40、30代が中心になって支えているが、建設運動を経験しながら「自分たちにもできる」との自信を得たことが発奮材料になっていると思う。
同胞は世代、地域を問わず、似たような力を備えているのではないか。重要なのはその引き出し方、動機づけだ。
康義平・総聯西神戸支部委員長 同感だ。振り返ると、地震、祖国を巡る情勢の悪化、そして不景気と、3重苦の3年間だった。その中で組織や学校は、同胞らの不屈の精神、愛国心に支えられた。運動は組織の政策と同胞のその気持ちが一致した時に前進する。大衆を鼓舞できるかどうかは、組織と活動家がどんな役割を果たせるかによると思う。