座談会―阪神・淡路大震災
総聯と同胞 被災地の3年(上)/慰問金に「祖国見えた」
団結が生き延びる道/「飢え」「差別」…危機の芽つむ
阪神・淡路大震災発生当初、総聯組織は「食」の確保、差別の防止など、同胞の基本的な権利・生活を守るために奔走し、成果を上げた。その様子を振り返る。
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――3年前を振り返り、まず思い出されることは何か
康義平(以下康) 地震やそれに続く火災で、1世がこつこつ築き上げた財産が失われたショックは普通ではなく、誰もが将来への不安に駆られていた。すべてをなくした状況だけに、組織を中心とした団結こそが生きる道だった。
鄭光根(以下鄭) 伊丹初級の校舎が使用不能になったのは一大事だった。ただ再建の問題が本格化するまで少し間があった。位置的に大阪に近く流通も動いていたので、当初は被害がより甚大だった神戸などの支援に回った。
趙富雄(以下趙) 当時は姫路支部委員長で、地元の自宅で地震に遭った。姫路は大きな被害はなかったが、テレビで神戸の惨状を知り、同胞らと共にただちに救援に向かった。組織、同胞をあげての救援活動を通し、総聯の生命力を見た。
崔敏夫(以下崔)地震で家が崩れ、成人式のために朝大から帰宅していた次男を亡くした。それ以外、地震直後のことは良く思い出せない。心に大きな穴が開いた様な状態で、何をどうしようとの考えも起きなかった。2日目の夜に日本学校で息子の遺体に付き添っていたところ、訪ねてきた康義平委員長から、ハッキョ(西神戸朝鮮初中級学校)に行こうと言われ、やっと「そうや、ハッキョに行かな」と思い、心の中に小さな灯が点ったのを覚えている。ハッキョで、皆で助け合って生活した体験は印象深い。
――非常時に、組織はどう機能したか。
康 支部、分会といった平時からの協議体系が生きた。ハッキョの被害が軽微だったので、まず緊急に分会長らと会合を開き、同胞らにハッキョに集り、助け合おうと呼びかけることにした。その過程で、多くの同胞の消息もつかめた。ハッキョでの避難生活でも、何が足りず、何をすべきかを皆で話し合う過程で方針ができ、決定が重ねられ、秩序が生まれた。
鄭 1人で太刀打ちできない問題に関しては、皆で集まって励まし合い、力を束ねることを、総聯の同胞は経験的に知っている。
崔 各地同胞からの支援に支えられた部分も大きい。何と言っても、生きるうえで最も基本的な「食」の心配がなかった。それも、温かいものを食べられた。どん底にいても人間的な営みが保障されたことで、前向きな姿勢を保てた。日本の記者も「被災地で初めて温かいものを食べた。ほかとは違って、ここには笑いがある」と言っていた。
康 地震直後から、大阪などからバイク部隊が渋滞を縫って駆け付け、自動車は山道を何時間も走り、全国から続々と物資を送ってくれた。「一刻も早く被災同胞のもとに」との気持ちが伝わってきた。流通や電気、ガスの供給が断たれた被災地では、組織のつながりがライフラインだった。
崔 また総聯の専従や非専従は、日本学校や自宅に残った同胞にも物資を届けて回った。総聯はあの時、「同胞のための組織」としての面目躍如だった。
趙 姫路では物資輸送のほか、被災同胞がこちらの親戚を頼ってきた場合にも、食糧などを届けたりした。また、「神戸にいる親戚に物資を届けてほしい」という要望にも応え、民団の同胞にも喜ばれた。救援する側でも「被災同胞のために」との一念の下、同胞と組織が一体になった。
――被災地内の組織が留意した点は何か
康 差別の防止と、不安の払拭だ。一時は同胞の間に、「朝鮮学校にいると仮設が当たらない。寒くても日本学校で耐えてこそ順番がくる」との誤解があった。昔から差別されて来た体験のせいだろう。そこで区役所と掛け合い、ハッキョを正式の避難所に認定させ、行政からの配給や情報も届くようにした。
「外国人が犯罪を犯しているので要注意」といった張り紙を町でみつけた時は、関東大震災のことが頭をよぎった。しかしそれも、支援物資を分けたり、ハッキョでの炊き出しに招くなど、平時にも増して地域住民と交流を深めていたので問題なかった。東神戸などでも見られたこうした光景はマスコミで大きく取り上げられたことで、被災地の同胞全体にプラスになったと思う。
そして何より、金正日総書記から同胞に慰問金が送られたことで、海外公民として祖国から見守られている心強さがあった。共和国赤十字が日本赤十字に、総聯中央が兵庫県に慰問金を送ったことにも同じことが言える。
崔 慰問金を通し、祖国、組織、同胞のつながりが見えた。祖国が苦しい状況にある中、在日同胞を支援してくれた総書記の配慮を、大事にせねばと思った。