平壌市民の年末年始――エレベーター工場室長のチョンさん宅を訪ねて/本社記者
家族、友人らと決意新たに/「迎春公演」の放送が楽しみ
元旦、平壌市民の家庭を訪ねてみた。平壌エレベーター工場の実験室長を務めるチョン・ギヨンさん(56)は60年代に日本から共和国に渡った帰国者。万景台区域のアパ−トで妻と末娘の3人で暮らしている。妻のシン・ヘウォンさん(54)は癌センターの薬剤師、末娘のファヨンさん(22)は平壌音楽舞踊大学の3年で、歌を専攻している。どんな年末年始を過ごしたのだろうか。(平壌発=本社韓東賢)
嫁いだ娘2人も
平壌市民の元旦は、万寿台の丘の金日成主席の銅像に新年のあいさつを行うことから始まる。花籠や花束を供え、敬けんな気持ちで頭を下げ、新年の決意を新たにするのだ。
チョンさん一家3人も、嫁いだ長女のファオクさん(28)と次女のファソンさん(26)と合流し、万寿台の丘に向かった。女性たちは華やかなチマ・チョゴリ姿。花籠を供えながらチョンさんは、昨年開発した代用燃料の質を一層向上させることをはじめ、仕事でより大きな成果を上げることを決意した。資本主義諸国による経済封鎖が続く中、共和国で燃料問題は重要な課題となっている。
ずらりと手作りの料理
家に戻り、改めて両親に新年のあいさつ。チョンさんの娘さんたちは大きいのでもうないが、子供ならばここでお年玉というのは日本と同じである。
あいさつが済んだら、食事の用意だ。妻のシンさんと3人の娘たちはキッチンで忙しそう。チョンさんは、職場の仲間などの来客とすでに一杯始めている。
次々と出てくるご馳走。厳しい食糧事情の中でもお正月くらいは豪華に、という工夫がかいま見える。お餅や朝鮮風の肉料理、鯉の刺身などとともに、テンプラや海苔巻きなど、帰国者家庭ならではといった料理も並ぶ。すべてが手作りだという。どれも美味しそうだ。聞いて見ると、チョンさんの母は日本人女性だという。昨年、80歳で亡くなった。在朝日本人女性の訪日が昨年末に実現したが、もう少し早かったらと残念そうにチョンさんは語る。
「帰国後すぐ父を亡くして日本人の母と2人。当初は不安も大きかったが、祖国の大きな配慮を受け、生活援助や貴重な薬などもいただき、私も大学に行き、朝鮮労働党員にもなれた。母は本当に幸せだった。もちろん私もだ」
チョンさんは昨年10月、金正日朝鮮労働党総書記推戴を決定した平壌市党代表会に代表として参加した。大変名誉なことだという。その時の代表証を、「家宝」だと言いながら見せてくれた。
職場では慣例の送年会
一般的な年末年始の過ごし方を聞いてみた。
職場には31日まで出勤する。どの職場でも送年会を開くのが慣例で、部署単位で食べ物や飲み物を持ち寄って、1年間の仕事を振り返り、新年に向けた決意を語り合う。その後、歌ったり踊ったりしながら楽しく過ごす。
そしてだいたい31日は大掃除。主婦たちは家、子供たちは学校、仕事を持つ人たちは職場の1年間の汚れを落とす。
31日の夜は家族で、テレビで10時から放送される平壌市学生少年の迎春公演を見ながら過ごすのが恒例だ。日本で言えば「紅白歌合戦」のようなものだろうか。
実際に記者も、ずっとテレビにかじりついてみた。午前0時少し前に迎春公演の放送は終り、1年を総括する論説員の話しに続いて一年間の出来事を振り返る映像が流れる。バックの音楽は、「金日成将軍の歌」のメロディーだ。
そして午前0時の瞬間、鐘の音が鳴り、「愛国歌」(国歌)、「金日成将軍の歌」「金正日将軍の歌」の吹奏楽と合唱が続く。続いて論説員の話や他の歌が流れ、0時半頃、テレビ放送が終了した。この時間まで放送するのは、1年でこの年越しの日だけである。
チョンさんも、12月31日の夜は家族でテレビを見ながら語り明かしたという。ただ、女性たちは寝ずに翌日の食事の準備をしていたというが…。
1〜2日の2日間は新年のあいさつのため、職場の先輩や同僚、親戚、友人の家を互いに訪問し合い、食べたり飲んだりして過ごす。街は、食べ物や飲み物を手に携えた人々で溢れていた。
3日が仕事始めだ。チョンさんも3日には、職場にご馳走を持って行き、昼休みに分け合うなど、部下たちと楽しく仕事始めをすると話していた。