開城市で出土した金銅座像、高麗始祖王・王建がモデル/労働新聞


 労働新聞8月31日付によると、90年代初めに行われた高麗(918〜1392)の始祖王、王建の墓である王建陵(開城市)発掘の過程で出土した金銅座像(写真)が、王建をモデルに作られたものであることが、最近判明した。同紙に掲載された朝鮮民俗博物館のチョン・ソックン博士の記事要旨を紹介する。

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 金銅座像は、王建陵の北5メートル地点で他の多数の遺物とともに出土したが、地表から1.5〜2メートルの深さに、花崗岩の板石に覆われるようにして埋まっていた。発見された時、座像には薄い絹織物と金箔を施した青銅のかけらが付着しており、頭部をはじめ所々に金箔を施した形跡が残っていた。

 座像の姿形は一見仏像のようだが、この座像が男子像であり裸体である点、手の組み方、頭に被った冠などの特徴は、この座像が仏像でなく王建を形象したものであることを示す。

 また座像が発見されたのは、王建陵の北5メートル地点だが、そこは王建陵の墓室の中心線を延ばした線上にある。これは偶然ではなく、座像が王建を象ったものであることを示すものだ。

 被っている冠の形や模様、装飾も、皇帝や王が被った冠の特徴を持つ。

 さらに、座像とともに出土した12点のベルト装飾品の材質、色、形は、王建陵の墓室から出土した2点のベルト装飾品と同じだ。封建時代、ベルト装飾品の材質、色、形などは、身分によって厳格に区別されていた。したがって、座像とともに出土した装飾品が王建陵の墓室から出土した装飾品と同じだということは、座像が王建を象ったものであるという有力な根拠となる。

 「高麗史」によると王建は平面的な顔立ちだったというが、金銅座像の顔もこうした特徴を持つ。

 高麗王朝では、初めて朝鮮に統一国家を打ち立てた始祖王、王建の業績を高く評価し、彼を崇拝していた。943年に王建が死去した後、951年に大奉恩寺を建立し、王建の像を安置。歴代の王たちは毎年2月と6月、参拝していた。王建を象った金銅座像は、この寺に安置されていた像である可能性が高い。

 「高麗史」によると、1010年と1018年に契丹、1217年と1232年にモンゴルが高麗に侵入した際、王建の棺を墓から移動させ、王建の像も安全な場所に隠したという。金銅座像が王建陵から五b離れた場所に埋まっていたのも、こうした事情と関連するものと思われる。

 王建の金銅座像は、実在した人物を象ったものでは、わが国で最も古い金属像だ。高麗時代やそれ以前にも、金属で作られた仏像はあったが、実在の人物、とくに国王を金属で形象した作品はない。

 王建の金銅座像が、まるで仏像のように形象されているのは、仏教が支配的だった当時の時代背景と関連する。また、統一国家の創建者、王建を神聖なものとして崇めた当時の人々の感情の反映でもある。

 表情も若々しく荘厳な王建の金銅座像は、40代前半の若さで高麗国家を打ち立てた王建の風格をよく表現している。

 今回、金銅座像が王建を象ったものであると判明したのは、高麗時代の歴史と文化を研究するうえで大きな意義を持つ。