〈渡来文化 その美と造形〉 連載を終えて、日本に残る渡来文化の重層 |
寺院、仏像、絵画、建築…広く深い影響 「渡来文化−その美と造形−」は、2010年1月20日付の第1回「石塔寺三層石塔」から始まり、2011年4月27日付の第50回「阿修羅像」で終わった。 古代日本で渡来人が残した「美と造形」1千点を超える手持ちの対象の中から選んだごく一部がそれらである。 寺院、仏像、絵画、建築、土木技術、工芸、楽器、金石文、文房具、書跡など…それも国宝、重要文化財、そしてそれに準ずる対象を主として取り上げた。選択にたいへん苦労した。仮に仏像一点一点残らず紹介するとすれば百回は超すほどである。それほど「渡来文化」の影響は広く深い。
3分の1は「朝鮮」系
「新撰姓氏録」という古書がある。615(弘仁6)年に成った、ほぼ近畿地方一帯に分布していた平安時代初の貴族たちの出自が記されている。それによれば、総数1183氏の32%弱にあたる375氏は朝鮮からの渡来人がほとんどで、10例ほどが中国系である(表1)。「皇別」とは天皇の子孫、「神別」は神の子孫、「諸蕃」は外国人=渡来人の子孫、そして、「未定」は不明(ただし、( )内の数字は渡来人と証明できたもの)ということである。 つまりこの書籍によれば、平安時代初(9世紀初)の貴族の3分の1は「朝鮮」系であった。驚くべき数字である。 日本の古代、政治は貴族の掌中にあって庶民とは隔絶したものであったから、渡来人貴族もその数に見合ったように政治の場で活躍したに違いあるまい。 そういった状況下にあって多くの「美と造形」が成就したであろう。 シリーズで紹介した法隆寺金堂の「壁画」(7世紀前半)、7世紀末〜8世紀初の「高松塚古墳」壁画や「キトラ古墳」壁画、660年代に製作された「天寿国繍帳」の刺繍の下絵など、それらの国宝絵画の創造者が渡来人画家であったことなどはとくに異とするには当らない。記録に残る7世紀末までの絵画関係の担い手はすべて渡来人であった。 日本が整然と国家形態を確立した8世紀初、画工司という画家を管掌する中央官庁が設置され、それに所属する画家(画師、画工といった)152人が文献で確認できる。そのうち82人は渡来人で比率は約54%にも及ぶ。なかでも、秦氏系画家が19人も名を残して一番多く、百済系の河内画師一族がそれに次ぐ12人である。高句麗出身では黄書(文)画師一族が著名である。出色は従五位下の位にまで至った黄書本実、居住地までわかる黄文連乙麻呂−「山背国久世郷戸主」で「画工司令史、正七位下」の位にあった。「令史」とは中央官庁のいわば事務官である。
歴史ある数々の文化財
仏像はシリーズのうち11回紹介した。それらを彫造した仏師で名前が残るのは5人である。 止利仏師(飛鳥寺の釈迦如来坐像−重要文化財、法隆寺金堂の釈迦三尊像−国宝)を筆頭に、山口大口費、薬師徳保(法隆寺の四天王像−国宝)、国中連公麻呂(東大寺の大仏−国宝、東大寺法華堂の国宝諸仏)、そして将軍万福(興福寺の阿修羅像をはじめとする国宝諸仏)たちで、日本古代美術史上欠くべからざる輝かしい存在であった。 工芸分野は9例を紹介したが、実に目覚しい。馬貝類、金銅製履・冠、イヤリング、ブレスレット、指輪、佐波理、唯一製作者がわかる「天蓋荘厳雲花形裁文」、そして新羅時代の鐘まであって仰天する。この鐘、かつては日本の「国宝」であった。 文房具・書についてはそれぞれ3回。前者で紹介した正倉院所蔵の新羅から輸入した墨や、後者に示した百済豊虫の国宝の書・一難宝郎の重要文化財の書などは実に貴重である。 土木技術の遺構は6例。中でも、狭山池(第29回)と昆陽池(第28回)は今も実生活上利用されていて、千年をはるかに超える年月を存続してきた、技術の確かさに感慨を覚えたりする。 金石文の一例、「船首王後」の墓誌は国宝であるが、その流麗な文字は群を抜いていて(第45回)世の書家の注目するところであり、正倉院の成立に朝鮮や渡来人との関わりが大変深いのも納得、である。 参考までに、古代日本における広義の技術者数を示しておく(表2)。 それにつけても、日本の「古代美」の典型と目される数多くの遺品についてつまびらかに見てゆくと、その重層性に瞠目させられる。(朴鐘鳴、渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2011.5.16] |