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くらしの周辺−予測できない死の悲惨さ

 6年前の4月25日、105人もの犠牲者を出したJR宝塚線脱線事故が起きた。新聞やテレビでは事故を扱った報道が何度も繰り返されている。実はこの列車、私が毎日通勤で利用していた列車だった。前夜からの高熱(後にインフルエンザと診断)により偶然欠勤したため、難を逃れた。

 いつも3両目に乗っていた。5分ほど早く着いた日はホームの端にある喫煙コーナーで、仕事に向かう支部副委員長と一緒にタバコを吸ってから1両目に乗るのが日常だった。ほとんどの乗客が死亡した車両だ。当日は同僚や上司からひっきりなしに安否確認の電話がかかってきた。そのとき「あ!! 副委員長が!!」と飛び起きて電話をかけると「お前も無事か !?」との大声が。「なぜ?」の問いに、「今朝はアボジのチェサで休んだ」。互いの幸運に安堵の息をついたのを思い出す。事故の数日後、私といつも同じ車両に乗って音楽を聴いていた大学生が犠牲者としてテレビで紹介されていた。

 予測できない「死」というのは本当に酷い。先の大地震と津波、登校児童に突っ込むクレーン車…。亡くなった人はもちろん、遺された人にとってもこれほど残酷なことはない。先日亡くなった女優の田中好子さんも、迫り来る自身の死と苦痛に直面しながらも大震災の悲劇には胸を痛めたのだろう。

 平和と安全というのは人類共通の財産だ。事故や災害がなくなることはありえないかもしれないが、争いや利権や欲のためではなく、平和と安全のために人類の力と知恵を結集する日はいつ訪れるのだろうか。(許勇虎・団体職員)

[朝鮮新報 2011.5.6]