〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち28〉 孫のため王権確立に尽力−貞熹王后尹 氏 |
朝鮮王朝初の女性摂政 姉の代わりに輿入れ
「…母の背後に隠れ、大人の話を聞いていた姿が監察尚宮の目にとまった。…姉より尹氏の姿がよりいっそう非凡だということが宮中に報告され、王家への輿入れが決まり…」 「松窩雜★1」(李★2、1522〜1604)にあるように、坡平府院君尹璠の娘である尹氏(1418〜1483)には、世宗王の次男首陽大君の婚姻相手として当初白羽の矢が立っていた姉の代わりに、その美貌と聡明さゆえに婚姻が決まったといういきさつがある。尹氏が11歳のときのことだ。 当時は多くの大君夫人(王子の夫人)の中の一人にすぎず、まさか自分が国母になろうとは夢にも思わず暮らしていたことだろう。 ところが、夫首陽大君の兄文宗王が幼い息子端宗を残し夭逝、間髪を入れず夫首陽大君が宮中の実権を握るに至ると、彼女の運命の歯車は廻り始める。
政治的決断力
尹氏の夫首陽大君は甥である幼い端宗を退け、朝鮮王朝第7代王世祖として即位する。はからずも尹氏は王妃となる。その間、相次いで母と長男がこの世を去り、夫である世祖王(首陽大君)も即位から13年後に病でこの世を去る。19歳で王位を継いだ次男睿宗も、即位後1年2カ月でこの世を去る。本来は睿宗の長男に王位を継承させるべきだが、彼女は亡くなった最愛の長男の息子、それも次男である★3山君、後の朝鮮王朝第9代王成宗を立て、自身は朝鮮王朝初の女性摂政として、垂簾聽政に乗り出すのである。 それも睿宗が亡くなったその日に、である。なぜか。★3山君の義父(妻の父)が、政界の実力者韓明鵁だったからである。孫の将来のためには、誰に肩入れするのが一番得策なのか、彼女は瞬時に判断したのである。夫首陽大君が政変を起こした時も、元々これに反対だった尹氏は、だがひとたび事が起こると、その朝玄関で躊躇する夫にはっぱをかけ甲冑を着せて送り出したという。政治的決断力がある女丈夫だったと史書や野史には書かれている。ドラマなどではよく幼い王の玉座の後ろに御簾が垂れ下がり、その御簾越しに尹氏が話す場面が出てくるが、実は王が臣下と論じた内容を後で尹氏に報告すると、彼女が適切な助言を与えるといった方法で垂簾聽政は行われた。 彼女が摂政を行った7年間、大胆な性格と素晴らしい政治的感覚のおかげで、朝廷は平和で穏やかに安定を謳歌したという。
彼女の政(まつりごと)
貞熹王后尹氏が摂政になるやいなや最初に行ったことは、王族の「整理」であった。孫★3山君の地位を脅かす存在である王子たちはみな遠流に処し、王族の官吏登用を法によって禁じた。また彼女は、公私を区別し自身の信仰を政治に介入させることはなく、個人的には仏教徒であったが政策的には儒教を押し立てるしたたかな政治家であった。崇儒抑仏政策を強化、火葬を禁じ、僧侶たちの都城への出入りを禁じた。 また、六等親の婚姻を禁じ、貴族と平民の祭祀を分けるよう指示した。尹氏は平民の暮らしにも関心を持ち、高利貸しをしていた丙需司(王室の私有財産を管理する部署)の機関を560カ所から235カ所に改め、各道に蚕室を設置、養蚕に力を入れた。また綿花畑を大々的に造成、桑の種子も栽培するよう指示した。このような政策は彼女が摂政でいた7年間、世祖の腹心であった韓明鵁、申叔舟らが実際に施行したのだろう。尹氏はその決断力と大胆さを生かし、管理者としての能力をいかんなく発揮したといえよう。 成宗が名君だというならば、それは祖母貞熹王后尹氏の築いた基盤があってこそのことだろう。 貞熹王后尹氏が垂簾聽政を行った7年間は、朝鮮に「女王」が君臨していたとさえ指摘する専門家もいるのだ。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) ★1=言に兌 ★2=皀に旡 ★3=者の下に乙 [朝鮮新報 2011.5.6] |