石原都知事の「パチンコいらない」暴言 |
安っぽすぎる差別と排除の無間地獄 石原慎太郎・東京都知事の「パチンコいらない」発言が大変な評判を呼んでいるという。正確には東京都知事選の選挙戦最終日だった4月9日の街頭演説で、福島第1原発の事故に伴う電力不足の折から、「自動販売機なんてやめちまえ。コンビニで買って家で冷やせばいいじゃない」「パチンコはジャラジャラと音を立てるために電気を煌々とつけるのは、世界中で日本だけだ」「二つの電力がなけりゃ、福島の原発はいらない」云々とまくし立て、当選後も同じ話を繰り返してのけたものである。 とりわけパチンコ無用論≠ェネット上で好評だと聞いたので覗いてみると、確かにそうだそうだの大合唱。もちろん誰がどう考えるのも自由だが、「今の日本にはこういうカミナリ親父が必要だ」「関東大震災と世界大恐慌が相次いだどん底に生まれ育ったたくましい世代」などという反応は誤解も甚だしく、看過するわけにはいかない。
思い上がりの権化
石原都知事はただ単に戦争成金のドラ息子だ。夥しい屍の上に蓄財されたカネでヨットを買い与えてもらった少年時代を自慢して、「(私たち兄弟は)まぎれもなく選ばれた者だった」(「弟」幻冬舎、1996年)と胸を張ってしまうことのできる、幼稚で思い上がりの権化のような人なのだ。当時の彼は64歳にもなっていた。パチンコがどうのこうのの現在は、なんと80の大台にさしかからんとしているのだからあきれ果ててしまう。 通俗小説家としての評価は任でないので避けておく。ただし石原都知事が世に出た50余年前の芥川賞の選考会で、彼の「太陽の季節」への授賞に最後まで大反対を貫いた佐藤春夫氏の、今日あるを見越したような炯眼だけは、あらためて紹介しておく必要があるだろう。 「これでもかこれでもかと厚かましく押しつけ説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである」「これに感心したとあっては恥しいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負はないよと念を押し宣言して置いた」(「芥川賞選評」「文藝春秋」1956年3年月号) そう言えば今回の選挙戦中も、石原都知事は被災地のボランティアを買って出るでもないのに防災服で通した。どこまでもパフォーマンスで世の中を泳ぎ続けるタレントは、そして今回も、世間一般には好感情を抱かれにくい「パチンコ」という、格好のターゲットを発見したのだった。 ネット上の反響を眺めていくと、そして案の定、パチンコ店の経営者に多い在日朝鮮人に対するひぼう中傷が溢れていた。石原都知事の計算づくというよりは、いつも通りの差別が、いつもと同様か、時節柄、いつも以上の付和雷同を集めているということらしい。 かねて刑法で禁じられているカジノの誘致を唱えてきた人なのに。とか、仮にも首長が特定の業種を名指しで無駄呼ばわりしてよいのかなどと、まともな反論を試みてもムダである。彼が「いらない」の根拠として挙げていたパチンコと自販機の電力消費量にしてからが、勘違いと思い込みで妄想されたと思しい、デタラメな数字だった。 この手の酔っ払いはどこにでもいる。だからって差別してしまえば同じ穴のムジナの謗りを免れない。彼自身が吐いてきた暴言が暴言だけに、本稿も含めてたいがいの罵倒は許されてしかるべきではあるものの、差別だけはいけない。取り合わないのが一番だ。 知的退廃の跳梁跋扈 問題は、こんなものに同調している人々の方である。あからさまな差別発言を重ねに重ね、大震災の直後には「天罰だ」とまで、しかも血税を乱費した高級料亭での飲食や豪華ファミリー海外旅行、画家を自称する4男坊への利益誘導などなど、己の最低きわまる公私混同を棚に上げたまま言い放った人を、それでも4選させた東京都民の心性なのである。 「カミナリ親父」とレイシストとは同義でない。まるで異質な存在を混同して、それでわかったつもりの知ったかぶり、知的退廃の跳梁跋扈が恐ろしい。21世紀の日本の首都はネット右翼の巣窟に堕しているということなのか。 ヒューマニズムだけで物を言っているつもりはない。権力の側にいるわけでもないくせに、憎むべき相手を取り違え、前近代的で安っぽすぎる差別と排除の無間地獄に陥った人間は、自らも滅びる運命へと誘われていくのが世の常だ。卑劣と無責任に服を着せただけのような人々が、自分たちに都合よく築いているシステムの下で恣意的に決めた価値観に囚われきった臣民たちの、「欲しがりません勝つまでは」を必死で順守している滑稽は見るに耐えない。 無惨すぎる時代に一刻も早くピリオドを打とう。この国の社会にあっても、少しは真っ当な人間性を獲得しようではないか。(斎藤貴男、ジャーナリスト) [朝鮮新報 2011.4.28] |