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〈渡来文化 その美と造形 50〉 阿修羅像


奈良市興福寺、像高153センチ、国宝

 1952年の冬、「奈良春日興福寺国宝展」が東京で3週間開かれ50万人が、2009年「国宝阿修羅展」が東京国立博物館では94万人、九州国立博物館では71万人、興福寺での「お堂でみる阿修羅展」では28日間に25万6279人が、それぞれ、1時間待ち、2時間待ちでもどうということもなく「拝観」した。阿修羅像を彫造した同じ仏師の手になる「八部衆像」「十大弟子像」(すべて国宝)も展示されたが、それにはほとんど見向きもせず会場を後にした、というほどの阿修羅、あしゅら、アシュラ展であった。

 筆者にとっては驚き以上の現象である。

 興福寺の西金堂に安置されていた十大弟子像と八部衆像(この中の一体が阿修羅像)は734(天平6)年の造像で、興福寺本来の仏像としては一番古い。

 阿修羅はインドでは「悪鬼」と恐れられていた仏法の敵であったが、やがて釈尊に帰依し、その守護神となった。

 この寺の阿修羅像は等身大よりやや小さめの立像で、三面六臂(3つの顔、6本の腕)の脱乾漆造りである。

 左右対称に、3段に細かく長い造形に分けられた六臂がもつ見事な空間構成、身にまとった洗練された柔軟な薄い布の質感は、間然するところのない芸術的到達点を示している、と言えよう。

 3面のうちの正面像は(他の2面もそうであるが)、実在する少年(少女?)を理想化した手法で、しかもモデルから離れることなく、リアリスティックな美しさを漂わせる表情である。やや愁いをこめた未来を見つめるような眼差しは人を捉える。

 人間を現実から離れることなく理想化して彫像化すれば、このようなシンボリックな美しさに到達するであろう。

 この像を含めた仏像群は、734(天平6)年5月1日、仏師将軍万福が造像し、画工秦牛養が彩色した(「正倉院文書」造仏所作物帳)。将軍万福は百済、秦牛養は新羅からの渡来人である。

 秦氏は日本全国に分布していたが、「将軍」氏は、日本古代史上将軍水通と陽生が8世紀中葉に下級官人として名を残すのみである。

 それにしても、阿修羅展に200万に近い人々を集中させた最大の功労者は「将軍万福」さんであった。すぐれた芸術は予想を超える現象を引き起こす。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表、おわり)

[朝鮮新報 2011.4.25]