〈生涯現役〉 高齢同胞たちの杖となって−任栄仙さん |
火薬庫の跡地から出発
女性同盟神奈川・南武支部顧問の任栄仙さん(76)は、1948年4月に東京朝鮮中級学校に入学した頃の強烈な思い出が忘れられない。 「校舎は旧日本軍の火薬庫跡に建てられたもの。当時は小山のような土堤がグラウンドを占拠していて、毎日、シャベルやスコップを担いで、その山を削って平らにするのが生徒や先生の日課だった」 川崎市高津の自宅から約2時間かけての通学だったが、それでも楽しくて楽しくて仕方がなかったという。「朝鮮人だけで学ぶ喜び、他に神経を使わなくてもいい。友だちと山手線でぐるぐる回っていつまでもおしゃべりして。敗戦から間もない東京はどこも焼野原。池袋から赤羽線沿いに建ち始めた区営住宅がモダンで、うらやましかった」 みんなが困窮していた時代。「生徒たちはアルバイトで田舎に米を買出しに行って、上野のアメ横で荷を下ろして、登校してきた。お腹を空かしていた男子に女の子は弁当を分けたりもした」。
神奈川中高に赴任
1954年、高級部を終え、翌年、師範専門学校を卒業。神奈川朝鮮中高級学校の歴史地理教員として赴任した。 「今年、神奈川中高は60周年を迎える。開校当時は、作家の李殷直先生が校長、詩人の許南麒先生が国語や英語、日本語を、音楽は崔東玉先生と錚々たる顔ぶれ。こんな先生たちに恵まれて生徒たちも一生懸命に学んでいた」 そこで出会ったのが、東京理科大を卒業した俊英、孫済河さん。日本の都立高の教師などをした後、燃える思いを抱いて民族教育に飛び込み、同校の数学教員になっていた。 2人は57年に結婚。そして、教員夫婦として二人三脚で民族教育に心血を注いだ。3人の子どもを育てながら、任さんは東京朝鮮第6初級学校、南武朝鮮初級学校、茨城朝鮮初中高級学校、東京朝鮮第7初級学校、朝鮮大学校朝鮮語研究所などで約20年間、教べんを執り続けた。その情熱とエネルギーの源には、解放直後、南武初級建設の先頭に立ち続けたアボジ任正明さんはじめ1世たちの姿がある。 「差別を受け、蔑みを受けながらも、民族を愛する心を持ち続け、すべてを注いで民族教育の礎を作ってくれた1世の精神を次世代に伝えるのが2世の果たすべき使命だと思って、教壇に立ち続けた」 地域女性同盟に尽力 その後、女性同盟の東京本部、神奈川県本部各副委員長、南武支部委員長として、女性運動の先頭でがんばり続けた。 「子育てや学校運営、民族教育へのオモニたちの献身ぶりは、語り尽くせない。弾圧の嵐の中で、止むことのない差別との闘いのなかでも、教育の現場には、子どもたちを守ろうと、民族の魂を失わず凛として立つオモニたちの姿があった」と。 任さんたちが尽力して始まった「赤ちゃんコンクール」は、今では「オリニ・フェスティバル」として衣替えしながら大きく発展し、神奈川の年中行事として定着。また、教員だった経歴を生かして、女性同盟、学校、オモニ会をつないで学校の図書館を充実させるために心血を注いだ。 04年には、「南武高麗長寿会」会長に就任。地域の高齢の女性たちの世話役として活動する。「旅行やカラオケ、朝鮮料理を食べる会などみんなが楽しみにしてくれているのでやりがいがある」。狭心症や大腸ガンなどたび重なる大病に苦しんだが、家族と長寿会の仲間たちに支えられて試練を乗り越えた。そのたくましさとパワーにみじんの衰えはない。(朴日粉) [朝鮮新報 2011.4.22] |