侵略戦争と酒、朝鮮の伝統酒 廃絶へ追い込む |
嗜好変え、「隣人の親切」を押しつけ
侵略戦争というものは、第一に侵略される人民にはもちろん、侵略する側の人民にも大きな不幸をもたらし、それは長い年月が経っても消えない傷として残るものである。 日本の清酒は、本来はすべて米と米麹だけで造られた文字通り清らか≠ネものであった。ところが近代になって日清、日露の戦争が近づいてくると日本酒は大きく変化していった。 第一に、日本酒への需要が高まったこと、第二に増税の必要があったこと―つまり国家の方針によって戦争をするための資金が必要となった。 そこで国家による詐欺ともいえる「五悪六悪」が行われた。 その内容は、 @3倍増醸(水を加えて1本を3本にする)。 −の6点である。 酒は免許制とされ、酒税は所得税、法人税とならぶ3大税となり、その多くが日露戦争のために使われた。お米は文字通り軍事資源となり、農家は軍事政権によって無理矢理に供出させられた。その結果、食べることさえできないほど疲弊した農村は、多くの少女を身売りせざるをえなくなり、若い男性は徴兵されて203高地で死体の山となった。 獄死、自殺者も続出 日露戦争は日本人民、中国人民、朝鮮人民に苦しみを与えた以外のなにものでもない。 1937年7月7日の日中戦争以降、酒税はさらに8回にもわたって加重された。 この年から生産統制が始まり、1940年には原料米統制と酒は戦争経済に絡めとられていく。最近、当時酒蔵を経営していた人の話を聞いたが、憲兵より税務署のほうが恐ろしい存在で、投獄されて獄死したり自殺に追い込まれる者も少なくなかったという。 笑い合う日のために 20世紀になって文字通り「植民」をしたのは日本ぐらいのものである。日本はアジアを侵略して日本酒を持ち込むだけでなく、現地でも造らせた。 「もともと朝鮮人と日本人とは酒に対する嗜好が異なり、朝鮮人は初めのうちは日本の清酒をあまり好まないので需要の対象はほとんど日本人に限られていたが、総督統治の進展とともに、在住日本人も多くなり、また日本酒を好む朝鮮人も多くなった」(「朝鮮酒造業40年の歩み」)。 これによって伝統的な朝鮮の酒薬酒≠ヘ廃絶へと追い込まれた。 日本人は大量に朝鮮に入植し、支配階層となった。朝鮮の人々の生活の端々にまで日本人の価値観を入りこませようとし、衣食など、それこそ「隣人の親切」を押しつけた。これは朝鮮の人々にとって我慢できないことだ。 米国人が味噌汁や納豆を口にしないように、朝鮮の人々の嗜好が変わったわけではない。それは朝鮮の文化も、言葉も、民族までも否定するものであった。 1910年8月の「韓国併合」以降、朝鮮にも酒税法が公布され搾取は強められた。 いつか両国人民が笑い合いながら美味しい酒を酌み交わす日が来るよう努力していかなければならない。(高橋龍児「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む岩手の会」事務局長) [朝鮮新報 2011.4.18] |