〈高句麗の豆知識-I〉 大高句麗の勝利 |
敗戦の翌年(613年)、隋は3度目の遠征軍を編成した。 「隋書」は当時の状況を次のように伝えている。 「天下の人は労役のために死に、家は破産した。天子の親征は、3度遼東に進み、糧秣を運んで水陸両道から互いに戦場に集まったが、辺境に敗れて労兵は死に、大半帰らなかった。しかも人員物質の徴発は、毎年続き、家並みには辺境に徴発されていく良家の子と別れる慟哭の声が州県に鳴り響いた。老翁が耕しても飢餓を満たしえず、婦女が紡績しても衣料は足りない」 まさに国の命運は、傾きかけている。 3度目に煬帝は、宇文述に名誉挽回の機会を与えた。強気の煬帝は親征する。 遠征のために3度苦しめられ、犬死の犠牲を強いられた隋の国内には、煬帝への反感が募った。 ついには「遼東にて無駄死にするまいぞ」という反戦歌が流行った。 遼東城の攻防が開始された。宇文述は、前回の教訓から、高い楼を15尺もある梯子で建てて、城壁に接近して飛び越えようとした。 また、城壁の下に地下道を掘らせて進んでいった。ついには100万個の土袋を城壁の高さに積み上げて、そこから攻め込もうとする。これらをすべて遼東城はしのいだ。 煬帝は、前回の遠征で食料不足に悩まされたので、楊玄感礼部尚書(文相)に高句麗遠征の兵站を担当させていた。楊玄感は、煬帝を立てる策謀を行った楊素の子で、煬帝即位の最大功労者の家系。 しかし楊玄感は、遼東城攻略が長引いている状況と国内の反煬帝気運を見て、やがて自分にも敗戦の責任が追及されると見て反乱を起こした。 反乱軍の檄文には、主上は無道にして、百姓を以て怨みとなす。天下騒擾し、遼東に 死ぬ者、万を以て計る。今、君らと兵を起こし、以て兆民の弊を救わんとするが如何?」と高句麗遠征による国内の乱れを非難している。 煬帝は怒り、反乱軍を鎮圧する。 そして、こりもせずに煬帝は次の年に第4次遠征軍を編成する。しかし、徴兵しても兵が集まらない。反対に反乱が続き、ついには煬帝は、反乱軍によって殺された。 隋は高句麗との戦いに敗れて滅ぶ。大高句麗の勝利だ。 世界の戦史上、類例のない大戦争の勝利を朝鮮史は記録に残したのだ。名将乙支文徳の名はこれまた世界戦史に残るであろう。=終わり(金宗鎮、在日本朝鮮社会科学者協会東海支部顧問) [朝鮮新報 2011.4.7] |