〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉 第14回 湯浅克衛(下) |
「8.15」を糊塗する郷愁の欺瞞
日本の敗戦後、湯浅が最初に書いた短編「旗」(1946)では、朝鮮民衆が「独立万歳」に沸くなか、主人公は「(日本が)負けたことを一度は悲しんで、それからお祝ひとは行かないかな。さう行けば理想的なんだがな」と述べる。続いて朝鮮人らが主人公の家の火事を総出で消火してくれた逸話が挿まれる。朝鮮人への親愛と独立を祝福する気持ち、それに呼応させるように挿入された善き隣人たる朝鮮人のエピソード。しかし「旗」の続編「真昼」とともに、「8.15」を迎えた湯浅には、日本語と日本名を強制され、虐げられた朝鮮民衆への眼も、自ら翼賛団体に加担したことへの自覚や反省も見えない。 中国で敗戦を迎えた堀田善衛や武田泰淳らに比べても、朝鮮で敗戦を迎えた日本人文学者、知識人たちには、おしなべて驚くほど支配の自覚や敗北意識が欠落していた。朝鮮を誰よりも知り愛していると信じてやまず、できれば朝鮮にとどまることを希望していたらしい湯浅の言う、両民族間の「理想」とはいかなるものだったか。
高崎隆治は「湯浅には八・一五の意味がまったくわかっていない」「支配者生活への郷愁―それを『朝鮮への愛』だとして語らせようとする欺まん的な自己強制、……『カンナニ』の再提出はその証明のつもりであった」と厳しく批判した。「旗」執筆後に書き直された「カンナニ」には、初出時(1935)検閲を怖れ削除した「3・1運動」の「独立万歳」の声も書きこまれた。だが「旗」の「独立万歳」の描かれ方を重ねた上で復刻版「カンナニ」を読むとき、朝鮮民衆の抵抗も、解放の意味も、自身に向けられたものという責任当事者意識は、きわめて稀薄だ。
朝鮮戦争のさなかで始まった韓日会談と歩調を合わせ、日韓親和会なる民間親善団体が設立され(役員とメンバーのほとんどが旧植民者たちだったという。湯浅も発足以来の会員で後に理事も務めた)、その場で湯浅は自分が植民地第二世代であることを、誇りを込め、郷愁とともに気楽な雰囲気の中で語っていたと言われる。 善意の植民者であれば許され慕われさえするという自己愛的な許容意識は、過剰な情緒、朝鮮への愛をたてに植民地支配の当事者意識からますます遠ざけ、安直な融和策で自己満足に浸る −戦後累々と築かれた無自覚、無責任の「善意」は、こうした湯浅ら植民地体験者の「理想」によって端緒が開かれた。今日ほとんど顧みられないにせよ、湯浅の文学は、過去清算を欠いた「和解」論や「未来志向」のみを語ろうとする「韓」日の国家・社会関係から、はては「韓流」に乗じ嬉々として「コリア愛」に熱をあげる今日の日本人の純真無邪気さに至るまで、一つの下地となっているのではなかろうか。
それは植民地支配は悪いことばかりではなかった/よいこともしたという正当化、さらに「植民地支配=善」といった観念とも接合していく。植民地生活を美化する素朴な郷愁や慕情というだけでは済まされない。それは今日の「植民地近代化論」を支える思想的水脈として、戦後日本に脈々と流れていたものでもあるだろう。
1935年初頭、朝鮮総督宇垣一成は、中国大陸への侵略拡大を視野に、農山漁村の振興、兵站基地化を見据えた工業化とともに、朝鮮民衆の精神作興、思想改変を掲げ「心田開発運動」を強力に推進した。湯浅はこの政策に沿うような「心田開発」というルポルタージュ、および同タイトルの小説を書く。作品の批判点は数多あるが、一方で当時の湯浅の、朝鮮への心情の複雑な陰影も見出せる。 しかし、文字通り朝鮮人の「心」を耕しながら、日本人は帝国主義、植民地主義者の精神をこそ「開発」したのだった。湯浅はその本質を見る眼を到底持ち得ず、これ以降大陸開拓と皇国臣民化のイデオローグとして、「朝鮮への愛」をもって活躍することになる。文明化、近代化を最上善とし植民地を正当化する思想は、日本人の、朝鮮人の「心」を、今日ますます荒らしている。その暴力性が植民地への美しい郷愁などで塗りつぶされてはならない。(李英哲・朝鮮大学校外国語学部准教授) [朝鮮新報 2011.4.4] |