〈渡来文化 その美と造形 47〉 天蓋荘厳雲花形裁文(正倉院) |
高笠麻呂という金工(金属工芸技術者)がいた。奈良の平城京の左京六条二坊に居住し、752(天平勝宝4)年4月、東大寺の大仏開眼会に使用された、表題の「裁文」を製作した。 「裁文」は大型の金銅透彫板で、最も長い部分が43.5センチの、雲を造形化したものである。たがねで細部を線刻し、全体に渡金していて、柄の片面の部分に「東大寺高笠麻呂作/天平勝宝四年四月九日」と二行に分けた銘があり、また、柄の部分に花喰鳥の流麗な線刻がある。 もう一点、表題の「裁文」と酷似している、長さ78.5センチの、鳳凰の形に透彫りした金銅板がある。表・裏とも目、羽毛など細部を毛彫していて、その技法が高笠麻呂の作品そのものである。「金銅鳳形裁文」と呼ばれる。 この「裁文」は両方とも4月の大仏開眼会に使用され、正倉院にそのまま伝わった。 高笠麻呂は、この時正六位上の位にあった、技術系の下級貴族である。とはいっても、それは「貴族」間でそうなのであって、庶民から見れば近づき難い地位である。 笠麻呂は技術の熟練度が卓越したテクノクラートであったようで、757(天平宝字元)年9月には外従五位下の位に昇進している(「続日本記」)。 ところで、笠麻呂の正式氏称は「後部高笠麻呂」である。その「後部高」氏は「高麗国人正六位上後部高千金の後(裔)である」、「高麗国人後部乙牟の後である」(「新撰姓氏緑」)。ここでの「高麗」は「高句麗」を指す。「後部」は、ピョンヤン遷都−427年−後、高句麗が貴族層を「黄・前・後・左・右」の五部に再編した中の「後」部にあたる。つまり貴族であった。 高氏は日本古代史上数多く見られるが、後部高氏は少ない。 画師(画家)であった高君主、音楽に関わる官庁雅楽寮の従七位上の官人であった高多比、大井連を名乗った高ワ野らが古代史上に名を留めている。 さて、正倉院所蔵の多数の金属工芸品の中で、製作者が明白なのは高笠麻呂の作品であるこの「裁文」のみである。 千数百年の歳月の推移を耐えてきたこの金属工芸品の価値の「重さ」は、一体どれほどのものであろうか。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2011.4.4] |