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〈渡来文化 その美と造形 46〉 正倉院

正倉院の木組み(上)、高句麗麻綫溝1号墳の壁画

 東大寺大仏殿の西北に白い土塀をめぐらした一郭が正倉院である。

 「正倉」とは本来租税としての稲もみを収納した倉庫のことであり、「院」は周囲にかこいをした一区域を指すから、「塀にとりかこまれた租税収納倉のある一郭」が正倉院で、すなわちそれは普通名詞であった。しかし、時代とともにそのような「正倉」はほとんどなくなり、東大寺のこれだけが残って固有名詞化し、正倉院と呼ばれるようになったのである。

 8世紀中葉には建てられていて、東大寺の宝庫として機能していた。建物は桧造り、瓦葺きで、南北に長く、東向きである。間口約33メートル、奥行9・4メートル、総高14メートルで、床下が2・7メートルもの高さをもつ。建築様式は校倉造といい、大きな桧材を二等辺三角形に削り、その底辺を内側に向けて井桁に組み、それを積み重ねて壁に代えている。

 このような様式は古く、高句麗の古墳壁画につとに見られる。4世紀後半の麻綫溝1号墳の壁画がまさにそうである。また、「三国志 魏書東夷伝」(3世紀)弁辰条に、「その国(弁辰、今の洛東江中・下流一帯にあった古代国家)では、家を建てるのに、横に木を累ねて作る…」とある。

 「横に木を累ねて」家を建てれば、原理的に、壁画に見えるように、「正倉」―「校倉」形式となろう。さらに、従八位上の位にあった楽浪河内という人物が、712(和銅5)年、初めて「正倉を造営した功績により位一階を進め、μ十疋、布三十端を賜った」とあり、721(養老5)年に正六位下に、752(天平勝宝6)には正五位下で大学頭となっている。百済からの渡来人である(「続日本記」)。

 してみると、正倉院様式の建築は、朝鮮半島との深い関わりの中で成立したものであったことがよくわかる。

 納得でしょうか。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表)

[朝鮮新報 2011.3.28]