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〈生涯現役〉 米寿迎え、元気に祖国へ−金甲生さん(上)

「戦争はもうたくさん」

 青々とした海原に四方を囲まれた美しい島、済州島。1924年、済州邑吾羅里に生まれ、17歳で結婚。42年、18歳で来阪するまでこの島で暮らした金甲生さんは、3月5日、大阪・鶴橋の自宅で米寿を迎えたばかり。4月の祖国訪問に向け、心を躍らせながら、92歳の夫、許斗河さんとともに健やかな日々を送る。

「誰にも負けない」

健やかに米寿を迎えた金甲生さん

 80年前、食べ物にも困窮する暮らしの中で、物心ついたときから1日中、畑を耕し、麦や粟、豆を作り、草取りに励んだ。父を早くに亡くした金さんは、近隣の農家の手伝いをして、お金を稼ぎ、母と兄弟6人の暮らしを懸命に支えた。「それで、5本の指がこうなった」。金さんが広げて見せてくれた両手の指は、節くれ立ち、ゴツゴツしたまま。幼い頃の苦労をしのばせる証だ。

 「記憶にあるのは、いつも泥まみれになって働いていたことばかり。幼くても遊んだ記憶なんかない」。だから、「働くことにかけては、男も女も関係ない。誰にも負けない」と誇らしげに語る。そんな働き者だった娘を見初めたのが、同郷・吾羅里の、後に夫となる人の父だったという。

 懐かしい島の話をしながら、金さんの顔が突然、曇った。済州島4・3事件に話が及んだときのことである。

 今でも、胸の奥深くに沈殿するのは、この事件で犠牲になった弟と妹のこと。とりわけ解放前、島で一校しかなかったエリート校・済州農業学校に通っていた優秀な末弟を米軍政下、軍隊、警察、反共自警団の討伐作戦によって逮捕され、大田刑務所で虐殺、遺体も見つけることができなかった。この衝撃はオモニに絶望的な悲痛を与え、まもなく病死に至らしめた。

 渡日、そして、大阪大空襲での九死に一生を得た過酷な体験、肉親の凄惨な死とが、金さんのその後の人生に圧倒的な影響を及ぼすこととなった。

大阪大空襲から逃げて

一生、働きづめの金さんの節くれだった指

 大阪のナット(ねじ)を製作する商家に丁稚奉公していた夫を頼って、来阪した金さんは、港区市岡で間借り。42年、44年に長男と長女を出産。まじめで、働き者の夫の下で、やっと落ち着いた暮らしが始まった。「弁天埠頭のそばに家があってね。周りの日本人たちがすごくいい人で、助かった。

 言葉や日本の生活風習が分からない私に手を差し伸べてくれて」。以来60数年間、引っ越しを何度もしたが、近隣の日本人への印象は一つも変わっていないと笑顔で話す金さん。「毎年のように平壌を訪ね、これまで35回以上行っているが、10日も2週間もいなくても、『安心して行ってらっしゃい』と送り出してくれ、庭先の花の水遣り、家の前の清掃まで何でもやってくれる」と。

 そんな、金さんを震え上がらせたのが、日本に来て3年目、45年3月13日から14日にかけて体験した大阪大空襲の恐怖だった。「子ども2人の手を引いて、弁天埠頭の近くの防空壕に飛び込んだが、誰かの『みんな防空壕から出て来いー。焼け死ぬぞう!』の声に慌てて、そこを飛び出して逃げた」。空一面は米軍機でびっしり覆われ、やがて雨あられのように落下してくる焼夷弾によって、市街にすさまじい炎が燃え広がっていった。「防空壕に入っていった人は全員、焼死した。まったく戦争だけはもうたくさん」と金さんはその日、目撃した光景を心に刻む。

 多くの同胞たちが日本各地に疎開していったが、日本語を話せない金さんを心配した夫は、闇船を借りて、妻子を済州島に避難させた。

 やがて日本の敗戦。金さんたちは再び来阪。夫はその後独立した。着々と事業の繁栄を考えて、電気の夜学に通って、技術を磨き、新製品を開発した。「夫が考えたのは、今でいう究極のアウトソーシング型の経営システム。コンクリート・ブロック壁用のストロングサドルを開発して、下請けに出して製品を作ってもらい、本社は経営を統括し、営業を担った」。しかも、日本の知人の助けを得て、いち早く特許を取得。以来この製品が、経営の屋台骨を支えてきた。会社創立から半世紀、どんな不況の波に洗われても、びくともしない堅実な経営がこの時代に築かれたのである。(朴日粉)

[朝鮮新報 2011.3.25]