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〈高句麗の豆知識-H〉 倭との良好な外交関係

金銅釈迦如来坐像(奈良県明日香村飛鳥寺)

 高句麗の勝利には外交上の成果を無視できない。

 高句麗は隋の不穏な動きを見て、百済とその同盟国である倭との善隣に力を注いでいる。高句麗の嬰陽王は、文帝の恫喝を受けた5年後の595年に高句麗の高僧、慧慈を倭の聖徳太子の師として派遣した。

 太子の仏教の師として、また政治外交の顧問として太子によく仕え、太子の側近として20年間、日本に住んだ。

 この慧慈の助言によって大和の飛鳥寺の伽藍配置が百済式から高句麗式に換わる。

 飛鳥寺(法興寺)に入った慧慈は、百済の僧とともに仏教界最高位者になった。日本書紀は、慧慈が「三宝の棟梁となる」と記している。大興王は、605年に金銅釈迦座像の造像のために黄金300両を寄進している。610年には、曇徴らを派遣して絵具、紙、墨、水車の技術を伝えている。

 曇徴は、あの有名な法隆寺の壁画を描いた。法隆寺の設計の物差しが高麗尺であることはすでに話したとおりだ。高句麗の同盟国であった百済からも、593年阿佐太子が倭にきて聖徳太子像を描いたり、602年には、観靭が倭に暦本をもたらしている。

 おそらく隋は、このような高句麗と倭の同盟を苦々しく思っていたことであろう。聖徳太子は、600年から隋に4回に渡って使者を送ってきた。

 聖徳太子が煬帝に送ったと言われるかの有名な国書は、607年だが、高句麗が文帝を撃破した後である。

 「日出づる処の天子日没する処の天子に致す。つつがなきや云々」

 この国書の文言について隋は「蛮夷の書、無礼なるあらば復た以て聞するなかれ」という立場である。

 倭国が野蛮国だから国書の書き方を知らないから無視するものだ。一方、日本史側は、あの隋国と聖徳太子が「対等外交」を行ったと大書特筆している。

 「蛮夷の国」「対等外交」論は、いずれも当時の東アジアの隋と、高句麗および百済、日本の外交関係に顔をそむけているものだ。

 聖徳太子の国書は、高句麗との良好な外交関係があってこそ書かれたものと見るべきだ。文帝と煬帝の侵略のその間に書かれた国書は、高句麗側の倭国の立場を表している。倭国は、高句麗からの戦争勝利の知らせに安堵したことだろう。

 倭国の高句麗・百済に対する信頼と同盟関係は、その後も長く続く。670年の百済救援軍の倭軍の派遣につながっている。この時も倭は、高句麗・百済側に立って唐と戦っている。(金宗鎮、在日本朝鮮社会科学者協会東海支部顧問)

[朝鮮新報 2011.3.24]