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〈渡来文化 その美と造形 45〉 金石文C 船首王後の墓誌


船氏王後の墓誌

 船首王後の墓誌は、大阪府柏原市国分松岳山の古墳から江戸時代に発見されたらしいが、出土地点ははっきりしない。

 金銅製で、長さ29.4センチ、幅6.7センチ、長さ1.5ミリである。

 銘文は、表に4行86字、裏も4行で76字、計162字が刻まれている。大変端麗な字である。

 原文に即して現代文で書くと次のようである。

 「船氏の故、王後の首は、船氏の中祖であった王智仁の子である那沛故首の子である。敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え(6世紀末から7世紀初)、舒明天皇の代に至った。天皇がその才能の卓越さと功績の高さを知って、大仁の官位(12階のうちの第3位)を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668)12月、松岳山の上に葬った。夫人の安理故能刀自と墓を同じくし、その長兄である刀羅古首の墓のとなりに墓を作った。これは『即ち万代の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんと欲し』てのことである」

 船氏は百済からの渡来人である。

 「続日本記」延暦9(790)年7月条によれば、津連(菅野)真道らが、自分たちは百済人で、「貴須王の5世の子孫である午定君には、味沙、辰爾(智仁)、麻呂(牛)の三子があり、それぞれ白猪(葛井)、船、津の祖先である」、との上表文を残している。

 ここに見える「辰爾」は、「日本書記」敏達天皇元(572)年、誰も読めなかった高句麗の国書を読み解いたことで有名である。

 この辰爾は、船の賦を正確に数え記録したので「船長」とされ、それにより史と称するようになった。

 この一族についての日本の古記録を統合してみると、別表のようになる。

 集住していた地域は、大和川と石川の合流地点より南西の羽曵野丘陵北端(大阪府羽曵野市西部一帯)で、葛井寺、野中寺、大津神社、善正寺跡などがその関連社寺として残る。

 墓誌は国宝で個人の所有。展覧会でも開かれないとまず「拝」めない。

 それにしても、これほどの文字を書くにはどれほどの精進が必要だろうか。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表)

[朝鮮新報 2011.3.15]