top_rogo.gif (16396 bytes)

〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち26〉 宮中に神堂を建てる−張玉貞

唯一、宮女出身の王妃

奴婢の娘

禧嬪張氏の

 禧嬪張氏(1659〜1701)、一般的には張禧嬪と呼ばれる。本名は張玉貞。中人階級の父と奴婢の母の間に生まれ、幼くして宮中に内人(宮女)として入内、朝鮮王朝実録にも記されるほどの美貌を持ち、第19代王の肅宗に寵愛される。

 当時、「聖女」と謳われた正妻である王妃仁顯王后を「陥れ」、王妃の座を「手に入れ」た、朝鮮王朝4大「悪女」の一人。優しくしとやかな「糟糠の妻」を、あの手この手で追い出そうとする毒々しい妾。張玉貞はこのように語られることが多い。

 だがよく考えてみると、奴婢の娘(朝鮮王朝時代、基本的に子は母の階級に属した)である彼女と、生粋の貴族である仁顯王后を、二極対立の善悪でだけ対比することは不自然なことである。男性に都合のいい「婦徳」を身上とする貴族の娘と、幼くして人生の辛酸を嘗めつくした奴婢の娘。この2人の生き方が同じであるはずがない。

 時代背景や政治状況、その中での人間的苦悩、そういうものと合わせて考えることで、「悪女」張禧嬪は、本来の張玉貞としてわれわれの前に姿を現すのだ。

政争の道具に飽き足らず

大嬪宮−禧嬪張氏の御堂

 早くに父を亡くした玉貞は、当時資産家であり通訳官であった父方の叔父に引き取られる。貴族ではなかったが、代々国家の通訳官として重責を任された名家であった。

 美しい姪を入内させる理由は明らかである。たちまち王の寵愛を受けるが、王の母―大妃によって王宮を追い出されてしまう。再入内まで6年の長きにわたって彼女は機を待ち続けるが、自分の意思とは関係なく政争に巻き込まれていく。

 そもそもが、叔父と大妃は敵対する政治派閥南人と西人にそれぞれ身を置いていたのだ。玉貞はまるで叔父が属する南人の先導役のようであった。大妃の死で王宮に戻ることができた玉貞は再入内し、淑媛になり、5階級特進して昭儀、王子を産むとすぐに側室の最高位禧嬪の位が与えられる。

 玉貞への王の寵愛が高まるごとに、南人の勢力も増していく。しかし南人の政治派閥はあくまで政権交代が目的であり、まさか玉貞が王妃の座を望んでいることなど露ほども考えていなかったらしく、実家が西人であり子のいない仁顯王后の廃位が決まろうとしたとき反対すらしたほどだった。玉貞が王妃の座に着くと、史官は実録に次のように記した。

 「主上の英明で剛毅な気質でもってしても、このように取り返しのつかないことをなさるとは。女の蠱惑の恐ろしさよ!」(「粛宗実録」12年12月10日)

 しかしまた実録には、仁顯王后が張禧嬪を陥れるため嘘をつき、それが元で廃位させられたとある。

 「…嫉妬し、先王の言葉を偽り…『玉貞の前世は獣であり、主上が撃ち殺したことを恨み、復讐のためこの世に生まれてきたのです。そのせいで息子が生まれず…』」(「粛宗実録」15年5月2日)

人は「悪女」と呼ぶが

 王は玉貞を「愛していた」ので、「骨抜きにされ」て、彼女を王妃の座につけたのだろうか? そこに政治的な意図はみじんもなかったのだろうか?

 玉貞が王妃になった5年後、仁顯王后が復位する。南人に権力が集中することを恐れた王が、西人を取り立て始めたのである。その象徴として同時に玉貞は禧嬪に降格。朝鮮王朝粛宗時代は最も政争が激しい時期であり、また、たび重なる外敵による戦乱で社会的秩序は乱れ、商業の発展に伴い商人や通訳官ら中人勢力が新たに台頭し始めた時期でもあった。

 だが、新たなパラダイムにおいて、朝鮮朝後期の王権はいまだ脆弱、粛宗は王権の強化のために朝廷の派閥をそっくり入れ替える「換局」を断行、権力の掌握を狙う南人と西人の代理戦争として張禧嬪と仁顯王后の葛藤を利用した節がある。

 善悪では割り切れない利権と葛藤、陰謀渦巻く中、仁顯王后は病死、張禧嬪は儒教では禁忌である神堂を秘密裏に宮中に建て、新しい側室を呪ったという「罪」で賜死(自刃という記録もある)、波乱万丈の生を閉じた。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2011.3.11]