〈渡来文化 その美と造形 43〉 金石文A 文祢麻呂の墓誌 |
この墓誌は1831(天保2)年9月、奈良県宇陀郡榛原町八滝の文祢麻呂の墓から発見された。 この時の記録によれば、「金銅製の骨蔵器の中にやはり金銅製の壷をおさめ、別にまた銅箱の中に銅製の墓誌をおさめ、それらを地下に安置した上で周りを炭で埋め、土で覆った」とある。 墓誌は縦26.2センチ、横4.3センチの短冊形薄銅板で、表面左右にそれぞれ17字を2行に分って次のように刻みこんでいる。 壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻/呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卆 読み下すと次のとおりである。 「壬申の年の将軍、左衛士府督正四位上文祢麻呂忌寸、慶雲四年、歳は丁未に次る九月廿一日卆す」。 壬申の年は672年、慶雲4年は707年、死んだ(卆す)月日は9月21日、丁未はその年の当該干支である。衛士府は左・右あって、基本的には宮城内を守衛した官庁で、督はその長官、位階は4位相当の高位貴族である。墓誌に「壬申年将軍」とわざわざ刻んでいるのは、「壬申の乱」で大海人皇子(=後の天武天皇)側に文祢麻呂が助勢して戦勝に導いた、ということを指す。忌寸は、姓といい、古代日本独特の称号で家系や職名を表した。ここでは敬称。 「日本書紀」「続日本紀」に、壬申の乱の勝利に大海人皇子は文祢麻呂を功績の大であった1人として厚遇し、早くから「封戸一百戸、功田八町」を授けた、とある。 文祢麻呂の先祖は、5世紀初日本に文字を伝えたと言われる百済人王仁(=王爾)博士で、代々大阪府羽曳野市、藤井寺市一帯を中心に繁栄し、学問、文筆、記録を主管する名家として著名であった。その子孫はやがて文氏を筆頭に古市、浄野、武生、内蔵などに分氏していった。武人は珍しい一族であった。 墓地は芝地の中ほどに石積みの小墳として整備され、説明板も設けられている。 出土した遺品はすべて国宝に指定され、東京国立博物館に保管されている。 文祢麻呂も、以て瞑すべきか。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2011.2.28] |