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〈靖国の「金装朝鮮甲冑」を追う〉 李舜臣将軍の英姿を彷彿−「 他民族への敵愾心を煽る展示」−

 昨年本紙12月3日付に、靖国神社遊就館で開催された「神風」と題した特別展に関連する記事が掲載された。記事によれば、展示場に17世紀頃の朝鮮軍元帥が着用していたと思われる「金装朝鮮甲冑」と朝鮮の武具などが陳列されているという。

 また「金装朝鮮甲冑」は長い間その所在がわからず、行方を追跡していた国宝級の甲冑であり、これを靖国神社に「奉納」(寄贈)した人物は、明治時代の軍人の磯林眞蔵歩兵大尉とのことだ。続けて記事は、磯林が甲冑をいつ、どこで入手したのかや靖国神社に収蔵されるまでの事情は不明だが、磯林が金玉均らによる甲申政変の渦中で朝鮮王宮において戦死したという興味深いことも報道している。

 かつて「北関大捷碑」(壬辰倭乱での朝鮮義兵軍の大勝を顕彰した石碑)を所持していた靖国神社が、石碑返還(05年10月)間もなく、朝鮮文化財に関連して再登場したのである。

 靖国神社の石碑入手経緯や返還に至る事情を知る者として、見過ごすことのできない記事である。ましてや奉納者の磯林が朝鮮近代史の重大事変である甲申政変になんらかの関わりがありそうで、なおさら調べてみたいと思った。

 さっそく遊就館を訪ねた。特別展が「神風」と題された理由が、鎌倉時代の蒙古(元)襲来事変の元寇(1274年)に関連した遺物を展示することにあったことがわかった。

 パンフレットの案内文には、第1展示場に「元寇という国難に立ち向かった鎌倉武士を偲びつつ、遊就館が所蔵する甲冑、刀剣類や、元寇に関する遺物」を展示し、第2会場には「幕末以来の幾多の事変、戦役、別けても神風特別攻撃隊など、尊い生命を祖国に捧げられた護国の英霊のご遺書、ご遺品を」展示するとあった。

 第1展示場には、明治時代の画家が描いた「蒙古襲来油画」と称する大作の油絵14枚が掲げられていた。「神風」で元の軍船が沈没し、蒙古兵らが慌てふためく姿、鎌倉武士に討ち果たされる惨めな様子がどぎつく誇張された絵だった。

 また、「敵国降伏」と大書された天皇の勅額拓本、日本刀、大鎧などが麗々しく飾られていた。このような日本の遺品の一角に、「金装朝鮮甲冑」と朝鮮の弓、鐙、戦鼓、銅鑼などの武具と蒙古兵の兜、弓、火器などが置かれていた。

 第1展示場の展示物から伝わってきたのは、朝鮮や中国などの他民族に対する敵がい心と蔑視を煽り、「神風」の天佑がある「神国日本」の不滅と、国威を鼓吹する靖国神社の露骨な意図である。

 朝鮮や中国の遺物は、日本の戦勝を強調する戦利品扱いである。これらの遺物には、考古学的解説や由来に対する説明も一切なく、磯林眞蔵、徳川宗敬、陸軍省などの奉納者名と奉納日の立て札が素っ気なく置かれているだけだった。

 しかし、元寇とはまったく時代が合わない17世紀頃の「金装朝鮮甲冑」までをなぜ展示したのか靖国神社の考えを聞きたいものである。

 第2展示場には、「英霊」と称する戦死者の遺書、遺品、肖像写真などを展示し、それらを通して侵略戦争を「アジア解放」と「護国の戦争」と美化している。また「英霊の愛国心に触れ」て後につづくことを奨励するなど、靖国神社の日頃の主張が充満している会場だった。

 さて、奉納日が明治18(1885)年1月16日の「金装朝鮮甲冑」は、300年余の年月を重ねた遺物であるにもかかわらず、実に華麗で勇壮な状態を維持した逸品だった。龍と鳳凰が刻まれた兜、赤色の絹地で作られた甲衣の両肩には金龍の飾り金具が肩章として付けられ、甲衣全体に豆錫と称される丸鋲が鱗状に打たれている。ちなみに「韓国装身具美術研究」によれば、赤い色を使った甲衣は、朝鮮王朝時代の武官最高位の「正三品」身分の武将のみに許された甲衣とのことだ。

 「金装朝鮮甲冑」と酷似した甲冑を身に着けた李舜臣将軍の肖像画を、ある雑誌で見たことがあるが、まさに李舜臣将軍は「正三品」の朝鮮水軍統制使である。

 ところで、李舜臣将軍の英姿をほうふつさせる「金装朝鮮甲冑」の所蔵者だった磯林眞蔵は、どのような経歴の持主であろうか。

 甲申政変の騒乱時に戦死したとすれば、「雲揚号」の江華島侵犯事件以来、壬午軍乱、甲申政変と続く激動の朝鮮で、派遣軍人として活動していたと思われる。当時日本は、朝鮮の独占的支配を画策して、政治的・軍事的謀略に余念がなかったが、磯林も関与していたとすれば多忙だったはずである。その中でも、どこで甲冑を発見し、どのようにして日本へ運んだのか疑問が募る。

 とりあえず人名辞典に当たってみた。なかなか検索できなかったが、ようやく一冊の辞典に記載があった。

 「磯林眞蔵〜生年月日は不明、死亡時は明治17(1884)年、明治の軍人で駐朝日本公使館付武官、西南戦争で功績をあげる。京城の変乱(甲申政変)に遭遇し、暴民に囲まれ戦死」と記載されていた。のちに磯林が高知県人であり、生年が1853年であることも判明した。これによって磯林が隊付属の一般軍人ではなく、朝鮮侵略の現地出先機関である日本公使館の一員であること、朝鮮王宮ではなく、他所で死亡したことが確認できた。

 人名辞典の記載がヒントになり、それに関連した書籍にあたってみたところ、磯林の名が著述されている本を探し出すことができた。

 大正5(1916)年3月に葛生東介(右翼団体構成員)が編集した「金玉均」に「金玉均は朝鮮官吏及び島村、浅山、磯林などを招き、饗応するなど、日本公使館に向かって好意を示す」とあり、「この変(甲申政変)磯林大尉をはじめ、わが将士の死するもの」と述べられている。(南永昌、歴史研究者)

[朝鮮新報 2011.2.21]