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〈靖国の「金装朝鮮甲冑」を追う〉 原所有国に返還すべき−「奉納者は諜報活動に従事か」−

 昭和9(1934)年3月発刊の「京城府史」第1巻には、「公使館に住み 磯林大尉、語学生赤羽及び幾度の3氏は、変乱前より忠清道方面に旅行しておらず、乱後数日を経て、まさに青ニツまで帰り来り、3人とも暴民の毒手にたおれたり」と記載されている。菊池謙譲という人物も自著の「朝鮮諸国記」で「磯林大尉の殺害されし青坡の山は開かれて、今はソウル元町一丁目となり」と短く触れている。

 これらとは別に、1967年12月に南朝鮮で発行された金八峯著「青年金玉均」という歴史小説(朝鮮語)では、「金玉均は自邸で日本食の宴会を開き、日本公使代理の島村と公使館付武官の磯林大尉と日本の志士を自称している岡本柳之助、井上角五郎などを招待して」と磯林を登場させている。

 この招待宴については、甲申政変の備忘録というべき金玉均著述の「甲申日記」の中でも、「余一日は、日本酒を準備し、島村と磯林中隊長、高城およびその他の日人10余名を呼び」と触れている。

 人名辞典以外の書籍で確認できたことは、死亡地がソウル郊外の青坡であり、朝鮮民衆によって明治17(1884)年10月頃に殺害されたことである。

 これらの文献によって磯林の大まかな人物像は見えてきた。

 磯林は改革派の指導者である金玉均から接待宴に招かれるほどの日本公使館の重要人物であり、金玉均をはじめ、改革派の人士らと日頃から接触があったものと思える。また朝鮮に渡り、日本政府の朝鮮侵略政策に民間人として加担し、謀略と諜報活動に深く関与していた岡本、井上らと何らかの連係を保っていたようにも見える。

 大陸浪人、愛国の志士を自称した井上角五郎や岡本柳之助らは、日本政府の意を受けて、金玉均らを欺まんし、決起を煽動した仕掛け人である。

 井上は、福沢諭吉の門下生で、「漢城旬報」の発行人として侵略推進の筆陣を張った男である。

 岡本柳之助は、のちに王后閔氏殺害の行動隊長として凶行の指揮をとったテロリストである。岡本はかつて日本陸軍の砲兵大尉であり、西南戦争では参謀として活躍し、少佐に進級したという。磯林も経歴に「西南戦争で功績を上げた」というから、この2人は、当時から面識があったのかもしれない。

 このような人物らと交流があったらしいということに加えて、公使館付武官である磯林の任務に謀略、諜報活動があったことは十分に予想できる。

 この予想を裏付けるのが、旧日本陸軍参謀本部が編集した「朝鮮地誌略」1巻での磯林に関する叙述である。

 陸軍参謀局は明治4(1871)年に設置された。その任務は「機務密謀に参画し、地図政誌を編輯し、ならびに間諜通報などのこと」行うとしている。

 参謀本部はスパイ活動の地域を管東、管西の両局に分けて展開したが、磯林は管東局の一員として朝鮮で密偵活動に従事した。1882年6月の朝鮮兵士による壬午軍乱で、前任者の堀本礼蔵中尉が横死したのち、同年10月に後任者として磯林が公使館付武官になったのである。

 「地誌略」によれば、磯林は就任早々、ソウル〜楊州〜開城〜平壌を内地旅行の外交特権を利用して偵察行動を行い、ソウルにおける活動内容の一つとして「自己の統制下にある語学生を朝鮮政府へ雇用されるよう努力」したとのことである。

 磯林の死は「暴民によるもの」としているが、日本に対する怒りと反感が頂点に達していた朝鮮民衆に諜報活動が発覚して、制裁を受けたのかもしれない。しかし、磯林の死は、日本政府にとって大いに利用できるものだった。

 日本政府は、「甲申政変によって日本人居留民と館員に多くの犠牲者を出し、建物なども損傷した」との口実で朝鮮政府に対し、謝罪と巨額の賠償金を請求する京城条約の締結を強要した。

 条約の第3条には、「磯林を殺害したる兇徒を査問捕拿」とある。甲申政変の火種を作り、支援と保護の空約束で金玉均らに決起を促した張本人の責任転嫁も甚だしい要求である。

 磯林の経歴は大筋でわかったものの、「金装朝鮮甲冑」と結びつく資料を検索することはできなかった。

 激動の渦中にいて、任務多忙だった磯林が、朝鮮国内で甲冑を発見し、日本へ輸送できるものか−謎は深まるばかりである。

 だが、得られた資料によって、奉納日に関する不審な事実が浮上した。

 甲冑に添えられた立札に奉納日が「明治18(1885)年1月16日」と表記されている。しかし、磯林は奉納日の3カ月前「明治17(1884)年10月」に死亡しているのである。遺族が故人名で奉納したものか、それとも磯林が生前に奉納を約束しておいて収蔵された日を奉納日にしたものか、これも謎の一つである。

 靖国神社は「遊就館拝観のしおり」で、絵画、美術品、武具甲冑、武器類など10万点に及ぶ神宝を収蔵していると述べている。その中には今回の朝鮮甲冑や武具類、返還された「北関大捷碑」も含まれているはずである。

 遊就館図書館に「所蔵目録」がないものか訪ねてみたが無駄足だった。だが「神宝」にはかつての帝国軍人、その遺族からの奉納品、皇室からの下賜品などが相当数あると思われることから、アジア諸国、とくに朝鮮、中国の文化財が多く所蔵されているものと推測できる。

 まだ公開されていない在日朝鮮文化財の中には、本国の関係者が必死に行方を追求している文化財が多数秘められている可能性が大である。

 「金装朝鮮甲冑」も公開されたことで所在が明らかにされ、公開されず靖国神社の境内に放置されていた北関大捷碑も朝鮮人によって偶然発見されて所在がわかった。

 文化財が人類の共有遺産と認識され、不法、不当に取得した文化財は、原所有国に返還すべきと定められている時代に、靖国神社は「金装朝鮮甲冑」に関連する経緯を明らかにし、神宝10万点の中の朝鮮文化財の数量と内容を公開すべきである。

 また「金装朝鮮甲冑」の返還が妥当と申し入れた東京朝鮮人強制連行真相調査団に対し、誠意ある意思表明をすべきである。(南永昌、歴史研究者)

[朝鮮新報 2011.2.21]