〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち25〉 宮殿前でデモ−鄭亨淑 |
畜妾制度反対を叫ぶ 自らの姓を掲げて
1899年、旧暦の3月。彼女ら約50人は白いさらしに黒く大きく墨書し、宮殿の門の前にその幟を掲げた。 「一夫二室、悖倫之道、コ義之失」(一人の夫が二人の妻を持つことは、倫理に背くことであり、徳と義を失うことである) その隣ではゴザを敷き、30代から50代の女性たちが片膝を立てて整然と座っていた。その服装からは、一見して中流以上の家柄の夫人たちだということが見て取れた。 肩から腰にかけた白いたすきには名前が墨書きされていたが、多くは「金夫人」「朴夫人」というように夫の姓を書いている者が多かった。 先頭に座り指揮をする女性のたすきには、「鄭亨淑」とはっきり書かれていた。堂々とした態度の彼女は、賛襄会、通称女友会の会長であった。 賛襄会とは、女学校設立の後援を目的として、啓蒙思想に目覚めた女性たちが発足させた近代女性団体である。「賛襄」とは、助け、育てるという意味を持ち、組織は会員400人、集会には傍聴人が100余人集まるほどの規模だったという。「賛襄会」は、主にソウル北村出身のインテリ女性たちを中心に、外国生活の経験のある女性や、宣教師が新しく設立した学校を卒業した女性たち、その他にも妓生や庶民層の女性たちなど多様な階層の女性たちで構成されていた。
王に直訴
「王自らが率先して側室を排し、大臣から末職、一般庶民に至るまで、これからは一切妾をおいてはならないとの勅令をどうかお出しください」 彼女らの上奏文の内容である。 鄭亨淑は毎日デモに参加、午前10時頃には「女友会」の会員たちを引率して宮殿の門の前に現れたという。一日中、王の返答を待って座りこみ、解散令が出ると午後6時頃に粛々と帰宅、これを1週間続けた。 口さがない人々は、「ヨウフェ」(女友会)という当時の読みにひっかけて、彼女らを中傷した。「宮殿の前にはヨウ(狐)が化けた女たち数十人が座りこんでいる」「よこしまなヨウ(狐)を見に行こう」などと、揶揄したという。 好奇心と嫌悪でいっぱいになった人々が続々と集まり、いつしか宮殿の門の前は混乱を極めた。 高宗は、「国家用人何限貴賎」(国家が人を用いるときどうして貴賎を問うというのか)と人材本位を明らかにしながら、庶子差別の原因とも言える畜妾制度についてはついに一言も言及せず、朝鮮王朝歴代の王もまた然りであった。 非人間的な畜妾制度 朝鮮王朝時代、畜妾制度は法律上公認され、嫉妬は女性の最も厭うべき罪悪とされた。それによって凄惨な事件が引きも切らずに起こったことは、朝鮮王朝の血塗られた権力闘争を描いた時代劇に詳しい。 正夫人には夫の位によって称号が与えられたが、妾の場合は「率妾」「某召史」と戸籍に書かれ、死後棺の上に書かれる肩書きも同じそれであった。庶子は仕官するにも差別され、どんなに科挙の成績が良くても低い位しか与えられず、相続においても、葬儀においても差別された。 また妾を呪う内容の民謡などを見ると、正妻の苦悩もまたその人間性を崩壊させるほど深刻であったことがうかがい知れる。 (略)手紙が来て開いてみると (略)何の病で死んだやら 畜妾という夫の横暴とべっ視は、正妻であれ妾であれ、人権の冒とくであり、不幸の種であることに変わりはない。 「女性自らが団結、決起し、悲劇の種をなくそう」、これが畜妾反対デモの趣旨であり、目的だったのである。 112年前、鄭亨淑たちが封建思想を拒み、社会の現実と対立、勇敢に闘ったこの事実は、朝鮮の女性解放運動史の中でも特記されるべき事柄である。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者) [朝鮮新報 2011.2.10] |