〈渡来文化 その美と造形 41〉 書B 重要文化財の書 |
日本の古代、今の大阪市生野区を中心にして百済郡があった。諸資料によって715(霊亀元)年以前から833(天長10)年まで、その存在が確認できる。 「百済郡」であるから、もちろん百済からの渡来人が集住していた。百済王氏を筆頭に、百済部、調、竹志=竺志=筑紫、広井造、そして一難(壱難)氏らが史上に名を留める。 この項の重要人物は「一難」氏である。「正倉院文書」の天平神護元(765)年2月付「造東大寺司移」に、「少初位下一難宝郎 年45 摂津国百済郡人」と出る。すなわち、「東大寺建造官庁の公文書」に、中央官庁の下級官人である「少初位下」の一難宝郎、年齢は45歳、今の大阪市内の百済郡の人、と記されているということである。経師であった。 天平10(738)年から天平神護元(765)年まで28年間も写経司(役所)に出仕してたことが「正倉院文書」で確認できる。同族に、大般若経を神亀5(728)年書写した一難善得と、従八位上の位にあった壱難乙麻呂がいる。乙麻呂は天平神護2(766)年10月、浄上連の姓になった。 さて、一難宝郎が28年もの間書写した経典はぼう大なものであったろうが、現存しているのは中阿含経巻九のみで、書写し終えたのは天平宝字3(759)年9月27日、彼が39歳の時であった。この中阿含経の文字は出色の名品として書道史上非常に名高い。それゆえ、書の研究者は次のように言ったりする。 彼の書は「威風を示すが如き転折の綾角など、線に鋭さが加味されており、目の覚めるような筆力の冴えを見せている」。そのような評価からでもあろう、「中阿含経」は重要文化財に指定されている。 なるほど、というべきか。(朴鐘鳴・渡来遺跡研究会代表) [朝鮮新報 2011.2.7] |