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〈私と朝鮮のつきあい〉 南北と日本一体で追悼碑

日本軍性奴隷制を追求する国際社会の声は高まるばかりである(女性国際戦犯法廷10周年に際して、昨年12月東京で開かれた国際シンポジウム)

 時を同じくするように、盛岡にも強制連行された人たちの追悼碑を南北共同で建てようという動きが起こった。

 呼びかけたのは、盛岡市にある労働福祉会館館長で以前に岩手県高等学校教職員組合委員長を務めた小原武郎氏(故人)であった。出席したのは総聯県本部、「刻む会」は私、そして高教組のメンバーで日ロ友好協会員でもある大信田尚一郎氏、「釜石日鉄元徴用工裁判岩手」事務局長の小森賢司氏(養護学校教諭)などである。

 私はもっぱら盛岡にある民団本部へ通いつめて協力を要請し、大信田、小森両氏は岩手県中を手弁当で回り、犠牲になった朝鮮人の実態を調査した。

 このような日朝一体となった協力活動の結果、1996年夏、南北の立場を超えて、当時の岩手県知事の揮亳で碑文が書かれた追悼碑が立派に建立された。今日に至るまで毎年夏になると慰霊祭が行われている。

 大信田尚一郎氏は2010年9月に訪朝し、朝鮮対外文化連絡協会との意見交換の場でこのことを発表し、「人民共和国では今のところ、日本の影が薄い。唯一の被爆国で反核平和を国の基本とする日本が、人民共和国や韓国と提携し、最新のエコエネルギーの創出に力を合わせる。これは東アジアの安定と平和にとって非常に有意義なことであると思う」(「初めての朝鮮旅行2010・9・21」)と述べている。

 その後「心に刻む会」は、元軍隊「慰安婦」証言集会を県内3カ所で7月に開き、それとはまったく別で自然発生的に私と3人のキリスト信者が集まり、女川町に住む宋神道さんを招いて「ナヌムの家」の上映と、彼女の体験を聞く会を開いて約200人が集まった。

 この集まりについては、2つの点で特筆すべきことがある。一つは仏教信者であろうがキリスト教信者であろうが、軍隊「慰安婦」を単に歴史として語るのではなく、常に今生きる自分の問題として考えてきたことが集まった人に受け入れられたことだ。

筑豊炭鉱に強制連行された同胞たちの遺骨が安置されている無窮花堂(福岡県飯塚市)

 もう一つは、宋神道さんが北海道や青森を回ったけれども、盛岡では「どうせ金もらっていたんだろう」という類のヤジが飛び、かえって論争できておもしろかったという意外な反応で答えてくれたことであった。

 西野瑠美子氏はこの問題について次のように述べている。

 「中学歴史教科書に書かれた『慰安婦』記述を巡る論争において、私は新聞報道のただならぬ『自主牽制』『自己規制』を感じずにはいられなかった。一つは歴史修正主義的な発言に毅然とした態度がとりきれないということであり、もう一つは『慰安婦』問題の語り方に女性への暴力という論点が明確に打ち出せなかったということだ。メディアの語り口は、女性問題忌避の感がある。(中略)『慰安婦』記述が国益に沿わないなどという理由で削除する論調が肥大化するこの時代にこそ、時代を逆流させる勢力に対して毅然とした姿勢を示すジャーナリズムが求められるのではないだろうか」(「いま、新聞に言いたい」新聞労連・現代ジャーナリズム研究会編)。ちなみに西野さんは、私をハルピンに連れて行ってくれた「オピニオンガイド」とでも呼べる存在であった。

 「刻む会」は2001年、岩手県では初めてとなる「北朝鮮の『慰安婦』写真展」を開いた。日時は2月11日(建国記念日)とぶつかった。天皇神話を戦争に利用した旧紀元節にあたり、しかも会場は昭和天皇が結婚したことを祝って建てられた岩手県公会堂であった。複雑な気持ちで「日の丸」を見上げていた。(高橋龍児、「刻む岩手の会」事務局長)

[朝鮮新報 2011.2.7]